11月2日 日々新しくされる

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。《コリント人への手紙 第二 四・18》

いつのニュースだったでしょうか、中学生の男女が一緒に自殺してしまいました。自殺の理由が、自分の成績が悪いことを悔やんでと言いますから、本当にショッキングな出来事でした。

これは教育の問題のように見えますが、根本的には人間は何のために生きるのかというアイデンティティー:人間の存在理由の問題です。自分は何のために生まれ、何を目標にして生きるのか、そしてどこに向かっているのかという問題が引き起こした出来事です。誰でも、生きている理由と意味、目的を見失ってしまったら、生きていくことができなくなるのです。「私には生きていく意味も、価値もない。」という考えは、私たちの生活を根本から破壊してしまいます。

私の知っている人で、若い時からいつも失敗し、自分を責めている人がいました。ある日、この人が教会の礼拝に出席して、イエス・キリストを救い主として受け入れ、天の父なる神さまが、自分の失敗を赦してくださっていることを悟りました。「私は今まで自分自身をみじめな者として、自分を卑しめていましたが、主に救われて新しく生まれましたから、イエスさまが私を愛し、大切にしてくださるように、自分自身を本当に大切にするようになりました」と彼は告白しました。そして言葉において、行動において、全く変えられました。すると周りの人の態度まで変わり、彼は周りの人から尊敬されるようになりました。このように、イエス・キリストの福音によって、私たち一人ひとりの人格がイエスさまの人格に似せて新しく造られるのです。

ある日、一個のガラスのコップがよごれ、傷ついて、ごみ箱に捨てられていました。が、そのコップは、一人の人によって拾われ、洗われて、磨かれて、宮廷の晩さん会のテーブルに置かれるようになりました。同じガラスのコップです。

人は本来、とても大切な存在、価値の高い存在です。主なる神さまに対し罪を犯し、堕落したため、人間が本来持つべき価値を見失ってしまいました。けれども、救い主イエス・キリストを心に迎え入れると、本来持つべき価値を取り戻すことができ、その価値を見つけることができるのです。それはちょうど、ごみ箱に捨てられていたガラスのコップが洗われて、磨かれて、宮廷のテーブルに移されたことに似ています。ガラスのコップは一つの目的のために造られました。人の手に握られ、人の渇きを潤すことが、造られた本来の目的です。そのガラスのコップは、本来持っている目的や価値を取り戻すことができ、その価値を見つけることができたのです。

同じように、誰でも主を受け入れる人は、イエスさまによって自分の価値を見い出すという栄光の体験をすることができるのです。主の手の中にある自分自身を見い出し、イエスさまのために造られたことを知った人は、どんな環境の中でも幸福なのです。能力、知恵や知識が、人を尊いものにするのではありません。自分自身がイエスさまのために存在し、生き、使われることを発見することによって、人を尊いものにするのです。

お祈り:聖であられる天のお父さま、感謝します。私と家族は新しく造られ、新しく生まれることが出来、感謝します。けれども、私と家族は自分を卑しめ、いじめ、また家族が互いに、卑しめ、いじめてしまいます。どうか私たちを永遠のいのちが与えられた存在、天の父なる神さまの子として、お父さまに喜ばれる生活ができますように、聖く生きることができますよう、聖霊さま、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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