そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。《ヨハネの手紙 第一 三・22》
天の父なる神さまから約束のみことばを頂くためには、まず罪と不従順を主の御前に告白し、きよめて頂き、私たちの思いを変えて頂かなければなりません。父なる神さまの御前で不従順でありながら、「天の父なる神さま、どうか祝福してください」といくら祈っても、神さまは答えてくださいません。神さまから祝福を頂くためには、まず不従順の罪を告白し、イエス・キリストの尊い十字架の血潮で清められなければなりません。どうしたら、約束のみことばを頂けるのでしょうか。第一が、罪と不従順を告白し、イエスさまの血潮で洗い清めて頂くことです。
第二は、失望せず、熱心に祈り求めることです。このことを教えるため、ある時イエスさまは、たとえを用いてお話なさいました。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。この裁判官は考えた。『このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』《ルカ 十八・1~8》」そして遂に、裁判官に訴訟を起こした人を裁いてもらい、守ってもらいました。
このように、天の父なる神さまに祈る時には、失望せず、熱心に祈らなげればなりません。「そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す《ヨハネの黙示録 三・16》」と書かれているように、熱い心で、神さまの御座の前で、主に向かい、叫び求める時、天の父なる神さまのみことばが私たちに臨むのです。
第三に、待ち望むことです。熱心に祈り、待ち望む心の態度は、天の父なる神さまから約束のみことばを頂く近道となります。問題によっては、何カ月の間、あるいは何年も、祈り続けることもあります。たとえ長引いても、疑わず、主を信頼し、忍耐強く待ち望むなら、父なる神さまの約束のみことばは、必ず与えられます。
このようにして約束のみことばが与えられたなら、そのみことばを実行しなければなりません。神さまのみことばが臨んだら、周りの状況を見て心を騒がせる必要はありません。どんなに状況が動かないように見えても、約束のみことばは私たちに働きかけ、奇跡が起こります。ペテロは、イエスさまが「水の上を歩いて来なさい《マタイ 十四・29》」とおっしゃった時、そのみことば通りに実践して、水の上を歩きました。今日においても、私たちが天の父なる神さまのみことばを信頼し、その通りに実践する時、ペテロのような奇跡を私たちの生活の中でも体験することができるのです。
私たちの生涯の中で、みことばを通して事業が発展し、病気がいやされ、家庭に平和が満ち、霊魂が救われるのです。何も無いよう思えるところであっても、最悪の状況に見えても、天の父なる神さまのみことばは創造する力に満ち溢れています。死んだ者をよみがえらせる力に満ち溢れています。
お祈り:今も生きておられる天のお父さま、感謝します。天の父なる神さまの約束のみことばは、創造する力に満ち溢れています。主を信頼し、、みことばの上に固く立ち、奇跡を体験することができますよう、聖霊さま、助け導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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