父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。《ルカの福音書 二十二・42》
イエスさまは、十字架にかかられる前の晩、弟子たちと最後の過越の食事をされました。この過越の食事は、悲しみと苦しみと悩みの食事でした。
イエスさまは、パンとぶどう酒を分け与えながら、「『これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です』《ルカ 二十二・19~20》」と言われました。この過越の食事を通して、新しい契約を結んでくださったのです。
イエスさまは、イスカリオテのユダが裏切ること、ペテロがご自身を否定すること、弟子たちが皆散り散りに逃げ去ってしまうことを、みな知っておられました。食事が終わった後の弟子たちの様子は、「誰が一番偉いか」と互いに議論している始末でした《同 二十二・24》。にもかかわらず、イエスさまは弟子たちの足を洗われました《ヨハネ 十三章》。このことを通して、イエスさまは、献身と愛の姿を示してくださいました。またイエスさまは、ご自身がメシヤとして死なれること、よみがえった後ガリラヤで弟子たちと会うこと、天に帰り、父が約束してくださった聖霊さまを送ってくださることを語られました。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。《ヨハネ 十四・16》」今、イエスさまは、永遠に、聖霊さまによって、私たちと一緒にいてくださるのです。
その後、ゲツセマネの園に弟子たちと行かれたイエスさまは、悲しみのあまり眠り込んでしまった弟子たちをそのままにして、血の汗を流しながら祈られました。罪無きお方でありながら、全人類の身代わりとなり、十字架で血を流し、死ななければならないことは、最初からご存じでした。けれども、この祈りの時、初めてイエスさまは、天の父なる神との交わりから断たれ、全くの暗やみの中に見捨てられることを知ったのです。今まで33年間の歩みの中で、たとえ一瞬であっても、御父との交わりを失った時などありませんでした。しかし今、御父から、交わりを絶ち、暗やみの中に見捨てられると告げられたのです。それでイエスさまは、きょうのみことばの通りの祈りをささげられたのです。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」これは、苦しみに満ちた祈りです。この祈りをささげながら、イエスさまの汗が血に変わりました。
今、このような従順な信仰を持っている人がいるでしょうか。このイエスさまの愛と献身と、神の御心に従順する姿勢を私たちのものとしましょう。この祈りをささげてくださったイエスさまは、聖霊さまとして、私たちの心の内に住んでいてくださいます。自分のことだけではなく、まず神の国と神の義とを求める祈りをささげましょう。イエスさまのゲツセマネの祈りは「神さまの御心の通りになりますように」という祈りです。この祈りが、私たちの毎日の生活の土台となり、祈りの土台とるようにしましょう。 お祈り:赦しといつくしみに満ちた天の父なる神さま、感謝します。私と家族がどんなときでも神の御心に従って、従順に生きていくようにして下さい。神さまに聞き従うことが多くの犠牲にまさると書かれています。そのみことばの通りに従順して、愛し合う家族として下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


コメント