2月18日 土の器に入れられている宝

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。        《コリント人への手紙 第二 四・7》

イエス・キリストの中に置かれ、罪が赦され、救われ、永遠のいのちを頂いた私たちは、偉大な天の父なる神さまの子とされました。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです《Ⅰペテロ 二・9》」と書かれているように、罪が赦され、永遠のいのちを頂き、偉大な天のお父さまの子にして頂いたことを考えれば考えるほど、感謝に満ちあふれます。

私たちは取るに足りない者です。けれども私たちの心の内には、偉大なお方をお迎えしているのです。そのお方は、天と地とその中に満ちているすべてのものを創造され、今もすべてをご自分のお考えの通りに動かしておられる宇宙の主人です。私たちのうわべは、周りの人と何ら変わるところはありません。けれども信仰の目で見れば、大きな違い、天と地ほどの違いがあるのです。それは、たとえるならば、同じ一枚の紙でも、王の印が押されている紙で、その紙は世界中の国で正式な文書として認められるものと、落書の紙、なぐり書きの紙、メモ用紙との違いです。メモ用紙、なぐり書きの紙は正式には認められません。ゴミ箱に捨てられてしまいます。王の印が押されている紙は、大切に保管されます。

聖書は人を「土の器」と言っています。イエス・キリストの救いの宝がその中に入れば、神の力を体験する器になります。生まれたままの状態の「土の器」である人はいつも、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に従って生きようとします。自分の知識を誇り、自分の成し遂げてきたことを誇り、自分の持っている物を誇って生活しています。このままの状態では、永遠にみじめな「土の器」、みじめな人に過ぎません。「土の器」にすぎない私たちの中に、宝であるイエス・キリストが入られると、キリストの栄光ある力が現れて来るのです。キリストを入れた「土の器」である私たちは、キリストを誇って生きるようになるのです。また天の父なる神さまも、私たちをご覧になる時に、キリストを入れた器であると認めて下さるのです。キリストの力とは、「土の器」である私たちキリスト者が死ぬかと思えばよみがえらせて下さり、何も無い者かと思えば豊かして下さり、倒れるかと思えば立ち上がらせて下さり、敗北するかと思えば勝利させて下さるのです。なぜなら器の中におられるイエスさまが、「土の器」である私たちが壊れそうになると、内側から支えて下さるからです。

この事をはっきりと知らなければなりません。私たちが毎日イエスさまを信頼して生活していても、ある時は天使のようなったような気がするかと思えば、またある時は悪魔になったような気がする時があり、失望してしまう時があります。しかし、私たちは「土の器」です。私たちの中に、宝であるイエス・キリストを受け入れる時、私たちは常に勝利の生活をすることができるようになるのです。イエス・キリストだけを仰ぎ見ましょう。そうすれば、主イエスさまは、私たちの弱いところに働いて、必ず強くしてくださるのです。

お祈り:咎と罪のため死ぬべき私たちを、キリストの中でお救いくださった天の父なる神さま、感謝します。イエスさまの救いと、主ご自身を内に頂いているという大胆な信仰をもって、劣等感、罪責感、挫折感、人々を非難する思いを捨てて、キリストと共に、毎日雄々しく生きていくことができますよう、聖霊さま、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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