私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。《コリント人への手紙 第二 一・5》
このみことばには、「キリストの苦難」と「キリストの慰め」についての神聖なバランスが啓示されている。
霊妙な導き手である全宇宙の支配者は、一つの天秤ばかりをお持ちである。一方の皿には、神の民の「試練」が置かれている。他方の皿には「慰め」が置かれている。「試練」が置かれている皿が軽くなる時、「慰め」の皿も同様に軽くなる。「試練」の皿が重くなる時には、「慰め」の皿も同様に重く感じられるようになる。
黒雲が空に垂れ込めると急に暗くなり、光は一層その明るさを増す。一点にわかにかき曇り、暴風雨に襲われそうになる時、「天の御国」という船の船長は、乗組員である神の子の隣に、彼らのすぐ脇におられる。幸いなことに、私たちが最も打ちひしがれている時こそ、聖霊が慰めてくださる時なのである。私たちの霊は今まで以上に高められる。
その理由は、大別して二つある。一つは、私たちが「試練」に会う時、聖霊の慰めを受け入れることの出来る、新たな「部屋」が心の内に造られるという理由である。幾多の苦難を経て初めて、深遠な心を持つ人が造られる。苦難という鋤を用いて、慰めという貯水池が更に深く掘られて行く。こうして、聖霊の慰めを受け入れるための場所が、新たに設けられる。神が私たちの心をご覧になると、どこも既に一杯で、他のものを受け入れる余地がない。私たちは心地よい思いで過ごしている。神は、私たちの心に触れてくださり、心にひびをお入れになる。心に大きな衝撃を与える「試練」をお与えになり、心にひびが入る。すると次第に、私たちの心は「から」になって行く。こうして、神の恵みを受け入れるための場所が、新たに設けられることになるのである。人は謙遜になればなるほど、多くの慰めを受ける。慰めを受け入れるにふさわしく、心が整えられるからである。
「試練」に会う時が最も幸福であるという、もう一つの理由は次のことである。今まで以上に神と親しく交わり、神のお取り扱いを受けるようになるからである。食糧庫に食べ物が満ちていれば、人は神なしで生きて行ける。財布にお金が一杯詰まっていれば、大して祈らずとも暮らして行ける。食糧庫とお金がからになれば、私たちは神を求める。心の中にあった偶像が取り除かれると、私たちは主を崇めずにはいられなくなる。「【主】よ。深い淵から私はあなたを呼び求めます。《詩篇 百三十・1》」谷底から聞こえて来る叫び声ほど、鮮明に聞こえるものはない。深い試練と苦悩を経た、魂の奥底から湧き上がる祈りほど、神の心を動かすものはない。それゆえ、深い試練と苦悩に襲われることよって、私たちは神のみもとへと導かれる。そこで神に嘆願し、私たちは更に幸いな人になるのである。神に近くあることこそ、幸いな者の必須条件である。
試練の内にある信仰者よ、来れ。重荷を背負っていることで、心を苛立たせてはならない。静まって、主を待ちなさい。あなたの心は深く掘られ始めている。そこに、神の大きなあわれみが注がれるのである。
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