そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が【主】の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。《レビ記 一・3~4》
《レビ記》には、いけにえについての教えが書かれています。今日から数回にわたって、「いけにえ」について学びましょう。
《レビ記 一章》には、「全焼のいけにえ」について書かれています。「全焼のいけにえ」は、もともと「上げられる」という意味があります。神さまに完全に自分自身を献げるという意味です。この「全焼のいけにえ」は、イエス・キリストが十字架につくことの型です。イエスさまは、ひとつの傷もないご自分を、天のお父さまにお献げになりました。罪人に代わって、ご自分を「全焼のいけにえ」として、神におささげになりました。これは献身のいけにえでした。
「全焼のいけにえ」は、いけにえの中で、最初にささげるように命じられています。完全な「全焼のいけにえ」が神さまにささげられなければ、神さまとの生きた交わりを持つことができないからです。神さまを礼拝することができないからです。完全な「全焼のいけにえ」であるイエス・キリストが神さまにささげられるまでは、神さまと人が生きた交わりを持つことができないからです。イエス・キリストを通してでなければ、天の父との交わりを持つことは、決してできません。
この「全焼のいけにえ:献身のためのいけにえ」には、牛、やぎ、鳩が用いられましたが、この動物たちには一つの共通点があります。柔順であるということです。柔順な動物をいけにえとして選ぶのには、深い意味があります。十字架の死にまで、柔順に従われた「キリスト」を現しているのです。
祭壇に「全焼のいけにえ」をささげる前に、まずそのいけにえの血を注ぎ出さなければなりません。神さまにいけにえをささげるためには、そのいけにえをささげる者が、まず罪を赦して頂かなければならないからです。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。この血は、もちろん「キリストの血」を象徴しています。ですから、「全焼のいけにえ」の意味は、自分自身のすべてを完全に神さまの御前にささげることを現しています。そして、その血を注ぎ出すことを現しています。私たちのために「なだめの供え物」となってくださった、イエス・キリストを現しています。
「全焼のいけにえ」には「上げられる」という意味がありますが、イエスさまは、たびたび語っておられます。「わたしは、上げられなければならない。」この意味は、十字架に上げられるという意味があります。つまり十字架は「全焼のいけにえ」となるということを意味しています。また、死からよみがえられ、天に上られるという意味もあります。「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。《ヨハネ 十四・6》」 この「全焼のいけにえ」を通してでなければ、父のみもとに近づくことはできないのです。私たちがキリストの血潮を信頼する時、神さまと交わることができます。罪ある私たち人間は、ただイエス・キリストの中で、キリストの血によって、神さまと和解することができます。
きょうのみことばの全焼のいけにえとは、私たちが自分自身のすべてを完全に神さまにささげることも表わしています。私たちが神さまにささげるべき全焼のいけにえとは、キリストの血潮を信頼して、イエス・キリストと同じように、私たちの毎日の生活の中で、心と思いを尽くして、神さまの御心に従うことなのです。自分自身を完全に主に明け渡すことが、全焼のいけにえなのです。私たちが自分自身を神さまに完全にささげる時、神さまの御手が私たちの生活のすべての領域に及ぶようになり、天から来るすべての霊的な祝福が満ちあふれるようになります。
お祈り:私たちをイエスさまの中で選んでくださり、愛をもって守ってくださる天の父なる神さま、感謝します。私と家族が、神さまの御心に従って生活できるようにしてください。イエスキリストにならって犠牲を払い、献身する生活ができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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