もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。《レビ記 三・1》
《レビ記 三章》には、和解のいけにえ(交わりのいけにえ)について書かれています。「和解のいけにえ(交わりのいけにえ)」とは、「神さまと人間の和解、神さまと人が交わりを持つ事の出来る感謝」を表しています。和解のいけにえ(交わりのいけにえ)は、①感謝のいけにえ、②誓願のいけにえ、③自発のいけにえがあります。①感謝のいけにえは、今まで頂いた祝福を神さまに感謝するしるしとしてささげ、②誓願のいけにえは、将来受ける祝福を神さまに感謝するしるしとしてささげ、③自発のいけにえは、神さまに祈りをささげることを表してささげます。また更に、和解のいけにえ(交わりのいけにえ)は、贖いも意味しています。私たちが神さまの御前でただキリストの血を信頼することを表しているのです。
和解のいけにえ(交わりのいけにえ)は、「神さまと食事を共にすることができる」という意味でささげる、いけにえです。天の父なる神さまの食卓に招かれていることを覚えながらささげるいけにえが、この「和解のいけにえ(交わりのいけにえ)」です。これは「神さまとの交わり」そのものを意味しているのです。これには特別な意味があります。キリストを信頼している私たちが、儀式に参加してキリストを見上げ、信じていることで満足するのではなく、食べ物を食べるように、私たちの心の中にキリストを受け入れなければならないということです。過越の祭りを通して、この真理を更に具体的に悟ることができます。
イスラエルは過越の祭りを行う時、まず「家の門柱とかもいに子羊の血を塗った」後、食卓で「子羊の肉を食べ」ました。その肉を食べるのにいくつかの規則がありました。「門柱とかもいに塗られた血」とは、キリストの血による贖いを意味し、「子羊の肉を食べること」は、キリストを信頼する私たちが、毎日キリストとの深い交わりの中に入れられることを表しています。イエスさまはおっしゃいます。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。《ヨハネ 六・55~56》」 これは何を意味しているのでしょうか。第一に、日々、キリストを信頼して、キリストの救いを頂き、救われ続けなければならないことです。第二に、肉体の健康を持続するために食べ物を摂取するように、信仰の健康を持続するためには、霊の糧であるキリストの生きたみことば(レーマ)を頂き、祈らなければならないことです。そうする時、キリストとの生きた交わりを持ち、いのちを豊かに持つ事が出来るようになります。
和解のいけにえ(交わりのいけにえ)は、神さまの御前で、罪を赦して頂いた者が喜んでささげる感謝のいけにえです。この世で、何よりも重要な事は、神さまとの和解です。神さまとの和解や交わりが壊れると、人間関係も壊れます。自分自身の精神も壊れます。毎日の生活で争いが絶えず、隣人と仲が悪くなります。このことを解決してくださるために、キリストが自ら和解のいけにえ(交わりのいけにえ)になってくださいました。キリストの十字架の贖いこそ、神さまと私たちが和解するためのいけにえなのです。キリストが息を引き取られた時に、神殿の中の垂れ幕が上から下に向かって裂かれたのは、キリストの十字架の贖いによって、神さまとの交わりが開かれたことを意味するものでした。ですから神さまと和解し、交わりを持ち続けるために、イエスさまの血を信頼し、みことばを信頼しなければなりません。
お祈り :和解のいけにえとして、この世に来られたイエスさまをたたえます。私と家族がみな、主の中で、神さまと和解できるように助けてください。食べ物を食べるように、みことばを頂くことができますように。和解の福音を実践し、神さまと人が和解できる祈りをささげ、人と人が和解するための祈りをささげることができますように。キリストのいのちと救いを伝えるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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