聖書の人物(89)弟子訓練を受ける12使徒 vol.2

イエスさまからの二番目、三番目の弟子訓練《マタイの福音書 十四・22~33》

1.山に退かれるイエスさま――人々の評価を求めるな

《マタイの福音書 十四・22~23》の箇所は、《ヨハネ 六・14~15》に詳しく書かれているので、そちらを見てみましょう。

14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

パンを食べて満腹した群衆は、イエスさまを王にしようとしたと記されています。「ガリラヤ地方の王」に祭り上げようとしたのです。このことを知り、イエスさまは群衆から身を引き、祈るため一人で山の中に入って行かれます。今後の導きを求め、天の父なる神と語り合い、御父のお考えを確認なさるためです。

この時点でユダヤ人は、「赦されない罪」を犯しました。イエスさまがユダヤ人の王となる時期は先に延ばしました。《詩篇 二篇》に書かれているように、イエスさまは必ずユダヤ人の王となる日が来ます。それは地上再臨の後です。王となる時期は延期されたので、今更イエスさまを王に担ぎあげようとしても、天の父とイエスさまの決定は覆ることはありません。だから、「赦されない罪」と呼ばれているのです。この罪の結果、エルサレム神殿は崩壊し、エルサレムも滅ぼされ、世界中にユダヤ人が散らされ、今に至っているのです。しかし、毎回申し上げますが、ユダヤ人であろうと、私たち国々の民であろうと、個人が犯す罪はどんな罪であっても、必ず赦され、イエスさまの救いを受け取ることが出来ます。

ここから、次のことが私たちに語られています。聖書に書かれていない提案や願いごとは、100%叶えられることはないということです。聖書に書かれている約束であるならば、100%叶えられます。

イエスさまは、群衆から身を引きましたが、私たち罪人は直ぐに、この世の常識、価値観、風潮、評判に影響されます。注意しなければなりません。この世では「良い」ことであっても、天の父なる神さまの御前では正しくはないことが沢山あります。霊的識別力、洞察力を祈り求める必要があります。

2.湖の嵐――信仰の導き手であり完成者であるイエスから目を離さない

《マタイの福音書 十四・22》は、《マルコの福音書 六・45》では、次にように記されています。

45 それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。

イエスさまは12弟子を「無理やり舟に乗り込ませ」、先にガリラヤ湖の向こう岸、ゲネサレの地に行くようにお命じになりました。12弟子を訓練するためです。パンと魚の奇跡と同じように、イエスさまは今から、弟子たちにどのような訓練をなさるのか、ご存じだということです。

弟子たちは夕方前に舟に乗り込みました。まだ明るい内に舟に乗り、向こう岸に向かいました。が途中、直ぐに嵐に襲われます。舟を漕ぎあぐねている時、イエスさまが水の上を歩いて、弟子たちのところに近づいて来られます。《マルコの福音書 六・48》には、次のように書かれています。

48 イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。

弟子たちが主に助けを求めなければ、イエスさまはそのまま「通り過ぎるおつもりであった」のです。私たちもそうです。主よ助けてくださいと祈らなければ、主であっても何もなさいません。

イエスさまが弟子たちに近づいて来た時刻は、《十四・25》欄外注を見ると、「第四の夜回り」、午前3~6時の間です。つまり、弟子たちは10時間前後、或いは12時間近く、嵐の中で格闘していました。進んだ距離は、わずか4~5kmです。自分たちの知恵と力で、何とかこの場を乗り越えようとしました。丸々半日かかって、湖の真ん中辺りまでやっと進めるだけでした。一方イエスさまは、およそ1時間で、水の上を歩いて弟子たちの所まで来られました。そのイエスさまを見た時、弟子たちは「死の天使、死の霊」と思い込みます。

ユダヤ人は「死の天使、死の霊」を、人を殺す霊だと考えていましたので、弟子たちは「自分たちは死ぬのだ」と思い込んだのです。

イエスさまが弟子たちに向かって「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。「わたしは死の霊ではない。人を生かすために人となられたヤハウェである。だから、恐れるな」とイエスさまはお語りになります

なぜ、12弟子は恐れたのでしょうか。この直前に体験した五千人の給食の奇跡から、何も教訓を学んでいないのです。人には出来ないが、神には出来るということです。どんなことでも、神に問題を差し出すことです。神に助けを求めることです。「いかなる時にも神を信頼する」という信仰を、天の父は求めておられるということです。この訓練を受けたのに、何も学び取ってはいませんでした。

また、もう一つ重要なことがあります。12弟子の生涯は、イエスと共に、御父のものであるという教訓です。天のお父さまが責任をもって面倒見てくださるから、御父を信頼すれば良いという信仰です。

更には、御父は全てのことをご支配しておられるのだから、御父を信頼して、祈ることです。信仰は、頭で分かるだけでは成長しません。体験して、初めて成長するのです。知っていることと、主を実際に信頼することとは別です。

ペテロは「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言います。イエスさまは「来なさい」と仰ったので、イエスさまのみことばに従い、ペテロは水の上を歩きました。

ここで覚えておくべき重要なことがあります。ペテロが自然の法則に逆らって、水の上を歩く元が出来たのは、イエスさまの語られたみことばがあったからです。

イエスさまが直接お語りになることばのことを「レーマ」と言います。「レーマ」とは、或る状況下にある人に、神から語られる特別なことばのことを言います。

今から半世紀以上前、韓国で起こった出来事です。韓国のある町で「青年宣教大会」が開かれました。講師は当時韓国で用いられていた有名な牧師先生でした。若者が沢山集まって来ました。この宣教大会の間中、雨が降り続きました。川は増水し、激流によって流された橋や渡し舟もありました。

宣教大会が開かれている会場の近くにも川が流れていました。その川の対岸の村に、何人かクリスチャンの若者がいました。若者たちが宣教大会に参加するため橋まで来ると、橋は流され、近くにある渡し舟も流されていました。彼らはがっかりしましたが、2、3人の女の子が異口同音にこう言い始めたのです。

「私たちが水の上を歩けない話ってあるかしら? だって、ペテロは水の上を歩いたし、ペテロの神さまは私たちの神さまでしょう! ペテロのイエスさまは、私たちのイエスさまでしょう!ペテロの信仰は私たちの信仰じゃないかしら? あのペテロだって信じたのだから、私たちも、もっと強く信仰を持ちましょう!さあ、川を渡りましょう!」

3人の女の子たちはその場にひざまずき祈ると、固く手を握り合って水の中に入って行きました。彼女たちは川の中に入りながら「私たちは信じます。ペテロのように信じます。」と告白していました。けれども、増水した激流の力に足をすくわれ、川の中に消えていってしまいました。それから三日後、その川が海に流れ込む河口付近で三人の遺体が発見されました。

なぜでしょうか?

ペテロが自然の法則に逆らって、水の上を歩くことが出来たのは、その時ペテロに向けて語られた、キリストの口から出たことばによったのです。その時のペテロに必要なみことばを、ペテロにだけ語られたのです。それで、ペテロは自然の法則に逆らって、水の上を歩くことが出来ました。しかし韓国の少女たちには、このみことばが語られていません。神さまは、或る人に、特別に語られることがあります。その時には、自然の法則に逆らうような奇跡、神さまの御業が必ず起こります。みことばが語られたなら、従わなければ罪です。しかし、語られていないのに、御業を行おうとすることも、罪です。

もう一つ、これに付け加えて確認しなければならないこともあります。毎日の生活で、主のみことばが語られていないから、自分の好きなように暮らして良い、ということは断じてありません。日常生活の中で、私たちは聖書のみことばに従って生きるように求められています。みことばを選び取って生きることです。

ペテロは水の上を歩くことが出来ましたが、途中で沈みかけました。なぜでしょうか。イエスさまから目を離したからです。ペテロは、自分を取り囲んでいる状況を見たからです。風を見たからです。

イエスさまは仰います。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。《31節》」と言いながら、ペテロを引き上げてくださいました。

弟子たちがイエスさまを舟に招き入れると、嵐は直ぐに止みました。イエスさまは、全てをご支配しておられるヤハウェですし、父なる神さまもイエスさまのご生涯をご支配しているということです。

弟子たちはイエスさまに向かい「まことに、あなたは神の子です」と言い、イエスさまを礼拝しました。イエスさまは礼拝をお受けになっています。イエスさまは、そのように、礼拝を受けるべきお方です。万物を創造なさった創造主ヤハウェであり、目に見えない原理・法則・力を創造なさったお方です。

《コロサイ人への手紙 一・16》 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。

《ヘブル人への手紙 一・3》 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

3.イエスさまの二番目、三番目の弟子訓練

イエスさまが弟子たちにお与えになった、二番目、三番目の訓練には、どのような教訓があるのでしょうか。

第一に、この世や人々からの評判を求めないことです。私たちは肉の者なので、この世の常識や価値観の影響を受けやすいのです。また、周りの人から評価されることを求めてしまうのです。「みんな、私を見てください。私には、こんなことが出来るのです」と言いたくなる衝動に駆られます。見て欲しいのです。そして「すごいね!よくやっているね!」と言って欲しいのです。

イエスさまは、この世や人々からの評判を求めてはならないと教えていらっしゃいます。自分を高く持ち上げようとする人々の考えを、心の内に入れてはならないのです。よく考えて見てください。私たちは、高く持ち上げられるにふさわしい者でしょうか。否、心には罪と汚れがある者です。高く引き上げられるべきお方は、イエスさまだけです。私たちに求められていることは、聖書の価値観、歴史観、人生観を自分のものとすることです。

愛する皆さん、天の父が全てをご存じです。天の父が私たちの人生、私たちの歴史の全てをご支配なさっています。全てを働かせて、必ず益に変えてくださいます。私たちの人生を面倒見てくださる、ご支配してくださるのだから、イエスさまのように、自分自身を神の御心に委ねるということです。

《ローマ人への手紙 十二・2》 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

第二は、主を信頼して、一歩踏み出すということです。

教会には、2種類の人がいます。ペテロのように信仰によって踏み出す者です。そして舟の中に残った11人の弟子ように、ペテロの体験、特に失敗した体験を傍観する者です。現状に留まる者です。ペテロは、主を体験しました。舟に留まった者は何も体験できず、却ってペテロを批判し、嘲笑いました。

愛する皆さん。神を正しく知ること、つまり正しい神学を持つことと、その信仰によって一歩踏み出すこと、つまり実践することとは全く別のことです。信仰によって一歩踏み出さなければ、何も始まりません。生きた信仰と、死んだ信仰ということです。

《ヤコブの手紙 二・14~17》14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。15 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、16 あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

第三は、主の御心に従い、信仰によって歩んでも、試練は襲って来るということです。なぜ試練が襲って来るのでしょうか。信仰を引き上げるためです。主への信頼を更に引き上げるためです。

イエスさまが地上から去って行かれると、弟子たちは迫害を受けるようになります。その時には、強い信仰が必要になります。そのため、イエスさまはペテロにこのような信仰の体験をお与えになっているのです。

でも、弟子たちと同様に、私たちも中々教訓を学び取れません。なぜでしょうか。イエスさまは種蒔きのたとえを語られました。4つの土地があります。第三が「茨の地に蒔かれた種」です。この世の思い煩いと富の誘惑が強くて、私たちの思いが、みことばに従えないからです。

《マタイの福音書 十三・22》 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

今のこの世と、世の欲は、もう直ぐ終わります。直ぐ終わるのに、まだまだ熱心に、我を忘れる程夢中になっていたら、取り残されます。電車に乗って旅をしている人がいました。お腹が空いたので、売店に行き、どのお弁当にしようかと迷っていました。電車の発車のベルが鳴り出しているのに、まだ迷っています。やっと一つのお弁当をつかみ取り、五千円札を出し、お釣りをもらっている内に電車は行ってしまいました。こんなバカな話はないでしょう。

この世はもうすぐ終わろうとしています。この世のわずらいから目を離し、主イエスを見続けるように、主は私たちに仰っています。

《ヘブル人への手紙 十二・2》 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。もっともっと主を信頼する者とならせてください。みことばに従う者とならせてください。人に見てもらいたい、人から褒めてもらいたいという衝動に駆られる者です。主がご覧になっている、主が全てを働かせて益としてくださることを信頼し、主に仕えるように、周りの人にも使えることが出来ますように。聖霊さま、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

前の週へ  次の週へ  今週のメッセージへ

コメント