聖書の人物(91)弟子訓練を受ける12使徒 vol.4

心の目が開かれますように《マタイの福音書 十五・21~38》

1.異邦人の女の願い

イエスさまの弟子訓練の第一が、五千人の給食です。場所は、ガリラヤ湖の北の人里離れたところで、テーマはイエスさまを信頼し、イエスさまがくださる良きものを人々に提供することです。人々を霊的に養うことです。弟子訓練の第二は、イエスさまは一人で山に退かれ、御父と祈りの時を持たれたことです。テーマは、人々からの評判を求めないことです。第三は、嵐の中をイエスさまがガリラヤ湖の水の上を歩いて来られたことです。テーマは、ヤハウェであるイエスさまを信頼して一歩踏み出すということです。第四は、ベツサイダに来られたイエスさまの衣の房に触れた者は、皆癒されたということです。テーマは、衣の房はみことばを象徴しているので、みことばを信頼することです。第五は、律法主義、形式主義のパリサイ派の教えに注意するということです。形にこだわるのではなく、本質を見極めなさいということです。

きょうの箇所は、弟子訓練の第六番目のものです。カナン人の女の願いと、異邦人の地での四千人の給食の奇跡です。異邦人がイエスさまを信じ、霊的祝福を受けるようになるという教えです。

イエスさまは、弟子たちだけと過ごすため、異邦人の地に退かれました。イエスさまにしつこくついて来るユダヤ人たちがいません。弟子たちとだけゆっくり過ごすことが出来ます。弟子たちに多くのことを教えるためです。今風で言いうと「修養会、○○聖会」です。イエスさまは弟子訓練に精力を注いでいらっしゃいます。

ところがそこに、「カナン人の女」が現れました。《マルコの福音書 七・26》「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。」彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれ、つまり異邦人でした。

彼女は、イエスさまを「主よ、ダビデの子よ」と呼んでいます。そして娘のいやしを求めています。「ダビデの子」とは、ユダヤ人のメシアという意味です。これはどういうことかと言いますと、異邦人がイスラエルのために用意された祝福を求めたということです。

今月の2月28日まで有効な食事券を、高崎市は一人につき2000円配布しましています。高崎市の飲食店に活気をもたらすためでしょう。高崎市に登録したお店で2000円分の食事が出来るというものです。この食事券の噂を聞いて、「私も欲しい」と前橋市在住の人や安中市在住の人が高崎市役所に行って交渉しても、門前払いです。高崎市の住民が対象ですから。

主よ、ダビデの子よ」というイエスさまの呼び名も同じです。これはユダヤ人限定の祝福で、その限定付きの祝福を頂きたいのですと言ったということです。

イエスさまの答えが、《24節》です。「イエスは答えられた。『「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。』」冷酷に感じることばのようですが、事実は違います。イエスさまの仰ったことの本当の意味は、次のことです。イスラエルに用意した祝福を、異邦人に与えることは出来ませんということです。門前払いです。或る意味では当たり前です。律法で許可されていなことですから、イエスさまも出来ないのです。イエスさまは、父なる神のご計画に忠実なのです。

そこでカナン人の女は次に、《25節》「主よ、私をお助けください」と願い出ます。つまり、メシアであるイエスさまに憐れみを願い求めたのです。

前橋在住の人が、高崎市役所に行って食事券を求めても門前払いですが、担当の職員に「私は今日を生き延びるのがやっとです。無一文です。お金を持っていません。どうか、恵んでください」と憐れみを求めるなら、憐れみを示す職員が何人かいて、自分の財布から僅かでも与えるかもしれません。異邦人の女はイエスさまに憐れみを求めました。

イエスさまは彼女に信仰のテストをなさいます。《26節》「すると、イエスは答えられた。『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。』」「子どもたちのパン」とは、イスラエル人に用意されている祝福です。その祝福を異邦人に与えることは出来ないのです。またイエスさまはこの女性を「小犬」と呼んでいますが、この当時は「」とは、現在ほど悪い意味では使われていませんでした。但し、異邦人を呼ぶ言い方には違いありません。この女性は答えました。《27節》「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」彼女がイエスさまに答えた本当の意味は、次のことです。私はイスラエル人に用意されている祝福を奪うつもりは全くありません。「主人の食卓から落ちるパン屑」である異邦人に用意されている祝福を求めているのです。その祝福を頂きたいのです、ということです。

彼女は、イエスさまがお与えになった信仰のテストに、見事合格しました。それが《28節》です。「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」彼女の娘は、イエスさまが宣言されたのと同時に癒やされました。

2.デカポリス:異邦人の地での2つの祝福

ツロとシドンの地方から、ガリラヤ地方の北を迂回して、ガリラヤ湖の東岸にあるデカポリス地方に来られました。つまり、異邦人の地です。ここでイエスさまは、異邦人に2つの祝福をお与えになっています。

第一が、いやしの奇跡です。

このデカポリス地方は、かつてレギオンの悪霊を二人の男から追い出した場所です。二人から悪霊共を追い出し、悪霊どもに豚の群れに入ることを許すと、豚はガリラヤ湖目がけて飛び降りて行ったという、あの地です。その時、悪霊を追い出してもらった二人の男は、イエスさまの弟子になることを願い出ました。

マルコの福音書 五・18~1918 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」

二人の男がイエスさまとイエスさまのなさった御業を証した結果、イエスさまの御許に大勢の群衆がやって来ました。彼らの証しが功を奏し、人々は引かれて来たのです。彼らはイエスさまにいやしを求めました。イエスさまは彼らをみな癒しました。その結果、《31節》の後半。「群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。」「イスラエルの神をあがめた」のです。つまり、イスラエルの神を信じたのです。

デカポリス地方でイエスさまがなさった御業の第二が、四千人の給食の奇跡です。

これは《マタイの福音書 十四章》でなさった、五千人の給食とは別のものです。場所が違います。集まっている人数も違います。パンと魚の数も違います。今回は、パンは7つ、魚は少し。余ったパン切れを集めると7つの籠に一杯になっています。先の五千人の給食の奇跡では12の籠に一杯になりました。

因みに、12はイスラエルの民を象徴する数で、7は異邦人を象徴する数です。ですから、五千人の給食では、神はイスラエル民族を祝福なさる神であるということを表しています。今回の四千人の給食では、神は異邦人をも祝福なさる神であることを表しています。異邦人が霊的祝福を受ける時が近づいているということです。それは、イエスさまが十字架におかかりになり、贖いの血を流す時です。

イエスさまは大勢の人をご覧になると、《32節》で仰っています。「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。』」イエスさまは「群衆がかわいそうだ」と、異邦人をご覧になって「断腸の思い」を抱き、異邦人に対して憐れみの心を開いてくださったのです。

でも弟子たちは、イエスさまの憐れみの心を全く理解できていません。冷たく答えています。《33節》「弟子たちは言った。『この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。』」イエスさまは諦めません。《34節》「イエスが『パンは幾つあるか』と言われると、弟子たちは、『七つあります。それに、小さい魚が少しばかり』と答えた。」弟子たちの答えは、沈黙という態度です。先の五千人の給食から何も学んでいないのか、或いは異邦人に仕えることが嫌だったのか、彼らは積極的に動こうとしませんでした。彼らは群衆のもとに行き「誰か、パンを持っていないか!?」と渋々聞きに行きます。そしてイエスさまのもとに七つのパンと、少しばかりの魚を持って行きました。そして、食事が出来るように地面に座るように命じました。つまり、ここでも食卓に着くようにという意味で、座らせたのです。イエスさまは天の御父に向かい、感謝の祈りを献げ、弟子たちに配るように命じ、弟子たちが配ると、どんどん増えて行きました。

3.心の目が開かれますように

この第六番目の弟子訓練で、イエスさまが弟子たち、そして私たちに教えていることは、

第一に、神であるイエスさまを全面的に信頼することです。そして、人のことばではなく、イエスさまのみことばを信頼することです。感情や経験を信頼するのではなく、主を信頼することです。

第二に、イエスさまがくださる良きものを隣人に配ることです。隣人に配る前に、先ず主に全てを差し出ことです。そして主から再び受け取り、それを人々に配るのです。

第三に、異邦人も神の愛と救いと祝福の対象であるということです。異邦人も神に愛され、神の救いを頂くという重要な真理が弟子たちに示された第一回目です。が、弟子たちは全く理解していませんし、異邦人が救われることを全く受け入れていません。

異邦人も神に愛され、神の救いを頂くという重要な真理が示された第二回目は、10年後、《使徒 十章》で使徒たちのリーダーであり、教会のリーダーであるペテロに直接イエスさまがお語りになっています。

ペテロがお昼のお祈りの間に夢心地になり、天から大きな風呂敷のようなものの四隅がつるされて、地上に降りて来ました。その中には地上のあらゆる四つ足の動物、あらゆる地を這う生き物、あらゆる空の鳥が入っていました。これは動物のことではなく、異邦人を表しています。イエスさまがペテロに仰います。「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい《使徒 十・13》」つまり、異邦人を受け入れなさい、異邦人と一緒に食卓を囲みなさいということです。ペテロは答えます。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」ペテロの思いは、ユダヤ教の枠の中で留まっています。異邦人を受け入れ、親しく交わり、異邦人と一緒に食事を摂ることは出来ませんということです。主がもう一度ペテロに仰います。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」神は異邦人をも愛し、救おうとなさっているということです。同じことが三回繰り返されました。ペテロがこの幻を見ている丁度その時、ローマの百人隊長コルネリウスから遣わされた使者がやって来て、ペテロを迎えに来ます。そしてペテロは異邦人コルネリウスのもとに行き、異邦人が救われ、キリストのからだである教会に入れられる証人となります。

けれども、ペテロを初め他のユダヤ人クリスチャンは、イエスさまのお考えを受け取ることが、まだ完全に出来ていません。

異邦人が、神の愛と救いの対象であることが、ユダヤ人クリスチャンに受け入れられるのは、《使徒 十五章》エルサレム会議の時です。この会議で正式にユダヤ人リーダーたちは、異邦人もキリストの教会に招かれているこということを認めます。AD50頃ですから、《マタイの福音書 十五章》から20年が経っています。つまり、イエスさまからのメッセージを理解し、その通りに行動できるようになるには、20年以上を要したということです。聖霊に満たされ、聖霊に導かれてイエスさまの働きを成し遂げて来た使徒たちでさえ、これ程の長い年月が必要でした。

愛する皆さん。私たちは「疎い者」であるということです。繰り返し、繰り返し、繰り返し、イエスさまに教えて頂く必要があるのです。一回や二回で分かるほど、私たちは霊的に敏感な者なのではありません。知的理解が、体験的理解になるには、時間がかかるということです。頭では分かっても、それを自分で行動できるようになる迄には、かなりの年月が必要だということです。私は良く思います。「そんなこと、何度も聞いた。耳にタコが出来ている。」しかし、その教えの通りに中々行動できないのが実情です。疎い者です。頑なな者です。

このように教会の礼拝で、聖書から正しいイエスさまの教えを学びます。そして日々の生活でイエスさまの教えを実践するチャンスが与えられますが、そのチャンスを中々生かせないのです。頑なな者です。

このことを覚えておく必要があります。神は、人造りから始められるということです。イエスさまは、弟子である私たちを形造ることから始めてくださいます。私たちがイエスさまのお考えのように形造られたなら、主は私たちのもとに人を送ってくださいます。或いは、私たちを必要な場所に派遣してくださいます。イエスさまのお考えの通りに準備が進んだならば、新たなステージに入れて頂けるのです。私たちが分かる迄、繰り返し、繰り返し、繰り返し、イエスさまは諦めることなく、私たちを訓練してくださいます。

今、私たちの心の目が開かれるように、祈ろうではありませんか。

祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。心の目を開いてください。イエスさまの福音の素晴らしさは、私たちを圧倒します。が、私の心の目が閉じているため、福音の素晴らしさに圧倒されていません。主よ、憐れんでください。イエスさま、私を形造ってください。聖霊さま、私を導いてください。私を満たしてください。私に強く臨んでくださり、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

前の週へ  次の週へ  今週のメッセージへ

コメント