永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。《エレミヤ書 三十一・3》
律法は、私たちを大声で激しく糾弾する。私たちは、神の裁きに恐れおののく。「律法」と「神の裁き」によって、私たちはキリストのもとに導かれるのである。究極的な勝利は、いつくしみによってもたらされる。
放蕩息子は飢え渇いた末、父の家へ向かって行った。しかし「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。《ルカ 十五・20》」それで、息子が父の家の中に招き入れられた時は、彼の頬にはまだ口づけのぬくもりがあり、彼の耳には歓迎のことばの余韻が残っていた。
「律法と裁きの恐れは、人の心をただ硬くする。 / 律法と裁きがなすことは、それだけである。 / しかし血により贖われ、罪の赦しを頂くなら、 / 石の心をも溶かす。」
ある夜、主は門口に立たれ、律法という鉄の手でドアをノックなさった。その時、蝶番が外れるのではと思えるほど、ドアは揺れ動いた。人はドアの向こう側で、あらゆる家具を持ち出して積み重ね、「私はこの人を入らせない」と言った。
主は一旦そこを去られたが、間もなく戻って来られ、釘跡のある御手で静かに、優しく再びドアをノックなさった。いとも優しく、いとも静かに。扉は揺れることはなかったが、不思議なことに開かれ、固く拒み続けた人がひざまずき、今度は喜んで主を迎え入れたのである。「お入りください。あなたのノックを聞いて私の心は動きました。どうぞお入りください。釘で刺し通されたあなたの御手がドアに触れ、血の跡がドアに残されました。お泊まりになる所もなく、去って行かれるのを見るに忍びません。『あなたの頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。』『私をあなたに委ねます。あなたに従います。あなたの愛が私の心を捕えたのです。』」
このように、いつくしみはいつでも勝利を得るのである。モーセの石の板によって成し得ないことを、キリストの傷跡のある御手がなされるのである。真に人を救いに招く道は、これである。
私は体験的に理解しているだろうか。「キリストが私を引き寄せ、私は神の御声に喜んで従い、神の御声の通りに自らの罪を告白した」と言い得るだろうか。そうであるなら、主がこれから後も私を引き寄せ続け、遂には子羊との婚姻の夕べに座すことが出来ますように。
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