聖書の人物(92)弟子訓練を受ける12使徒 vol.5

キリストの教会とパン種《マタイの福音書 十六・5~20》

1.パン種にくれぐれも用心しなさい

イエスさまが精力的に弟子訓練なさっている様子を、見ています。これはイエスさまの公生涯の、最後の年です。イエスさまに残された月日は、1年です。

群衆をいやし、四千人の給食の奇跡を行ったデカポリス地方から、イエスさまの一行はマガダン地方に移動しました。そこは、ガリラヤ地方のどこかの地域で、具体的には分からないと言われています。恐らくガリラヤ湖の北西の地域でしょう。イスラエルの地にイエスさまと弟子たちが帰って来たので、早速パリサイ人とサドカイ人がやって来て、イエスさまに「メシアとしてのしるし」を求めています。パリサイ人とサドカイ人がやって来たということは、最高議会の代表団がやって来たということです。今迄行った奇跡は「悪霊のかしらベルゼブルの力、つまりサタンの力による奇跡」だと断定し、ナザレのイエスはメシアではない、ユダヤ人の王ではないと正式に、公式に発表した後ですから、イエスさまの方針はがらりと変わりました。イエスさまがお与えになるのは「ヨナのしるし」つまり復活だけだと仰います。ユダヤ人に与えられている「ヨナのしるし」、復活は三つあります。第一がラザロの蘇生、第二がイエスさまの復活、第三が《黙示録 十一章》に記されている「二人の証人の復活」です。

その後、イエスさまの一行は、舟でガリラヤ湖の北岸に向かいます。その途中、舟に乗りながらイエスさまは弟子たちに仰います。「パリサイ人とサドカイ人のパン種に注意しなさい。《6節》」《7節》で、弟子たちは、パンを持って来なかった犯人探しを始めています。

弟子たちも、私たちも同じです。心の内の関心事、咎め、罪責感を通して、周りの状況を理解したり、語りかけられる言葉を理解したりします。これは全ての人に共通している心の構造です。

イエスさまが《8~10節》で仰っていることは「わたしは、どのような必要をも満たすことが出来る」ということです。そして《11節》で、「パンではなく、パン種に注意しなさい」と仰っています。パン種とは、間違った教えのことです。そして罪のことです。イエスさまはこの後、教会を建てると仰いますが、教会の中に間違った教えを入れてはならない、罪を入れてはならないということをお教えになっているのです。弟子訓練の第七番目です。

2.キリストの教会

イエスさまは第八番目の弟子訓練を行うため、ピリポ・カイザリア地方に行かれました。今はイスラエル国内の町ですが、イエスさまの時代はヘルモン山の麓の異邦人の町です。元の名はパニアスです。偶像神「パン」の宮殿のある町です。ヘロデ大王は、皇帝アウグストからこの町を領土として与えられたので、皇帝崇拝の神殿を建てました。息子のヘロデ・ピリポはこの地方を譲り受け、この町をローマ風に拡張しました。その際、皇帝テベリオに敬意を表すため、ピリポ・カイザリア、つまりヘロデ・ピリポが皇帝テベリオのために建てた町という意味です。

この町は、切り立った岩山を背にしています。その岩山には洞窟があり、そこから泉が溢れる程湧き出ています。それが川となっています。ヨルダン川の源流の一つ、バニヤス川です。バニヤス川の底には、大小さまざまな石が散在してます。イエスさまの一行は、異邦人の町ですから、町には入らず、静かな場所で水入らずの弟子訓練の時をお持ちになりました。恐らく、切り立った岩山と川を見渡せるに場所に立ったのでしょう。その岩と川を見ながら、イエスさまは2つの質問を弟子になさっています。

第一が《13節》で、「人々は人の子をだれだと言っていますか」という質問です。弟子たちは答えます。預言者ですと言っています。つまり、イエスさまをメシアだと認めることが出来ていないということです。

第二の質問が《15節》で、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」です。弟子たち全員に対する質問です。ペテロが代表して答えています。「あなたは生ける神の子キリストです。《16節》」ここには、大切な二つの真理が語られています。一つが「あなたは生ける神の子」、つまりイエスさまはヤハウェなる神ご自身であるということです。二つ目が「キリストです」、つまり約束のメシア、ユダヤ人の王となるお方ですということです。神であり、人であるお方ですということです。

この答えをお聞きになったイエスさまは、二つのことを仰います。一つが、その真理を教えたのは人ではなく、天の父ですということ。二つ目が、教会誕生の預言です。聖書の中で初めて「教会を建てます」ということが語られている箇所です。

マタイの福音書 十六・18》「 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」カトリックは、岩はペテロであり、初代の教会の法王であり、その後に続く法王は、ペテロの立場と権威を受け継いでいると主張します。けれども、この解釈はこじつけの感が強いのです。

イエスさまは、切り立った岩山とバニヤス川を見ながら、この重要な真理をお語りになりました。「ペテロ」とは「小石」という意味です。ギリシア語では男性名詞です。「岩」とは「岩山」のことで、ギリシア語では「ペトラ」です。しかも女性名詞です。聖書で「岩」ということばが象徴的に使われたなら、必ず「メシア」を指します。つまり、イエスさまこそメシアです、イエスさまこそ、生ける神の御子、キリストですという信仰の上に、イエスさまの教会をイエスさまがお建てになるということです。教会とは、イエスさまに対し、この信仰告白をする人々の共同体です。イエスさまの血によって新生した者が集う神の家族です。教会の主人は、イエスさまです。

3.キリストの教会とパン種

この第八番目の弟子訓練で、イエスさまが弟子たち、そして私たちに教えていることは、

第一に、人からではなく、教会は天から出ているということです。

マタイの福音書 九・16~17》でイエスさまは仰っています。「16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

教会は、ユダヤ教の延長線上にあるのではないということです。

エペソ人への手紙 一・4~5、13》「4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

世界の基が据えられる前から、つまり《創世記 一・1》の前から、天の父なる神さまはキリストの内で私たちを聖徒にすることを選んでくださって、きよめて、栄光の姿を持つ者となるように定めてくださったのです。私たちは天に属しているものです。私たちの国籍は天にあるのです。

ですから教会は、人のことばではなく、神のみことばに従うのです。

イエスさまが弟子たち、そして私たちに教えていることの第二は、教会は新しい一人の人であり、第三の民族であるということです。《エペソ人への手紙 二・11~21

聖書では、全世界の人は3つの民族に分かれます。イスラエル民族、異邦人、そしてキリストの教会に属する人です。キリストの教会に属したからと言って、国民性を失うことはありません。国民性はそのまま残ります。メシアニック・ジューという呼び方があります。メシアであるイエスさまのからだに属したユダヤ人という意味です。そういう意味で私たちは、メシアニック・ジャパニーズです。

この教会の特徴は、先ず愛することです。《ヨハネの手紙 第一 四・19~21》「19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

イエスさまが弟子たち、そして私たちに教えていることの第三は、教会からパン種を取り除くということです。

コリント人への手紙 第一 五・6~8》「6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

2種類のパン種があると、先ほど申し上げました。一つは「間違った教え」です。間違った教えはいつの時代も、どこの国でも、人の教えのために聖書を利用しているということです。仕えるのではなく、支配し、コントロールすることを目的として、聖書を利用します。

パン種の二つ目は、個人個人の内にある「罪」です。

マタイの福音書 十五・18~19》「18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。

これらを、十字架につけるのです。

或る教会に泥棒が入りました。牧師はスタッフを集めて言いました。「きのう、教会で盗難事件が起きたため、断食の祈りを始めます。私たちの霊的な境界線に穴が開いたのです。私たちに何か問題が生じて、神の喜ばれない罪や、神の喜ばれない問題があるために、穴が開いたのです。霊的に入り込めない教会の中に、サタンが入り込んだのです。扉を建て直すのではなく、或いは鍵を新しく付け替えるのでもありません。神の御前に霊的な武装を新たにして頂くため、断食の祈りを1週間行います。」この考え方は、この世のものとは完全に違います。神の共同体、キリストのからだであるという強く認識している価値観です。い共同体です。

教会の中で犯罪が起こるのは、神の嫌われる罪があるからです。私たちには分かりません。人はうわべしか見ることが出来ないからです。共同体の中の誰かが罪を犯せば、教会は霊的に攻撃を受けるということです。

キリストの教会は、イエスさまのものです。愛の神のものです。教会の中で起こることは全て、愛の神からのメッセージが語られているということです。その罪を、教会からも、個人からも取り除くことをイエスさまはお求めになっています。

祈り:愛と恵みに満ちておられる、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、感謝します。天のお父さま、御前にへりくだらせてください。信仰を引き上げてくださる、主からの訓練を感謝致します。心の内にあるパン種を取り除くことが出来ますよう、聖霊さま導いてください。イエスさまの福音の素晴らしさを更に深く味わい知るため、心の内の罪を取り除き、きよめ、聖霊さまがご支配してくださいますように。イエスさま、私を形造ってください。聖霊さま、私を満たしてください。私に強く臨んでくださり、助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

前の週へ  次の週へ  今週のメッセージへ

コメント