与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。《ルカの福音書 六・38》
十字架にかかられる日の一週間前、イエスさまはエルサレムに上られる途中、ラザロ・マルタ・マリアの兄妹が住んでいるベタニヤに立ち寄られました。
マルタはイエスさまがベタニヤに立ち寄られるという話を聞いて、村の入口まで迎えに出ました。そしてイエスさまをお迎えすると、イエスさまをもてなすため、食事の準備に追われていました。兄のラザロが死んで、四日目に墓から生き返らせて下さったイエスさまのご恩に、報いようと思っていたからです。イエスさまが三人兄妹の家に来られ、皆でイエスさまの話を聞いていた時、マリアは立ち上がり、自分の嫁入りの時の持参金に持っていこうとしていた非常に高価なナルドの香油300グラムを、取って来ました。マリアは、自分の結婚よりも、イエスさまに対する感謝の気持ちを表したくなったのです。彼女はその香油をイエスさまの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐいました。これを通してマリアは、イエスさまに自分のすべてをささげる思いを表したのです。彼女の心の中には、喜びが泉のように湧き上がりました(ヨハネ 十二・3)。
けれども、イエスさまと一緒にいた弟子たちの中で、イスカリオテのユダが言いました。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。《ヨハネ 十二・5》」実は、これは彼の本心ではありませんでした。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。《同 十二・6》」イスカリオテのユダは、慈善事業をかたる心の貪欲な人でした。彼は、イエスさまの財布を預かる会計係りでした。そのイエスさまの財布から、お金を盗んでいたのです。ユダは、決してイエスさまを愛したことがなかったのです。彼がイエスさまに従ったのも、純粋な信仰からではありませんでした。彼は、イエスさまがイスラエル王国を再び建て上げ、その後、王様になると思い込んだからです。その暁に、自分は高い地位につこうと心の中に貪欲な思いを持っていたからです。十字架にかかる日が近づくにつれ、彼が分かってきたことは、イエスさまは直ぐに王国を再び建て上げるのではなく、先ずイエスさまは十字架にかかって死ぬということだったのです。イエスさまは、弟子たちに4回にわたって、十字架にかかって死に、復活する預言をお語りになりました。これを聞き、ユダは失望したのです。
マリアはイエスさまを愛し、自分の愛を行動に表しました。そのため、心は幸せに満たされました。ユダは地位や名誉を願い、イエスさまの財布からお金までも盗んだので、貪欲の奴隷となり、心は失望と不幸に満たされたのです。
このように、真の幸せは受けるのではなく、イエスさまにささげることにあるのです。
お祈り:いのちを豊かに与えるために来られたイエスさま、感謝します。私は、「豊かにお与えください」と自分のために祈って来ました。この貪欲をどうぞ赦してください。分かち与えるために来られたイエスさまの御心を知り、家族と隣人に、救いと、力と、いやしと、祝福と、永遠のいのちを豊かに分け与える者となれますよう、助け導いてください。隣人のために、犠牲の一粒の麦となることができますように。その時に、本当の幸せがあることが分かりました。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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