9月6日 心のきよい者

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。《マタイの福音書 五・8》

この世に生まれ出る時から、心のきよい人は誰一人いません。アダム以来、すべての人が心に罪を持って生まれるのです。けれども聖書は、ただイエス・キリストを信頼する心を持ち、神のみことばに従う心を持っている人のことを、心のきよい者と言います。使徒ペテロは言っています。「あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった……。《Ⅰペテロ 一・22》」 人が神の御前で、自分の力で自分を義とすることができないのと同じように、人が自分の力で、自分の心をきよめることもできません。

十字架にかかる日が近づいた日の晩のこと、イエスさまは、夕食の席から立ち上がると上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い始めました。弟子たちは驚きました。ところが、ペテロの順番になると、ペテロは断わって言いました。「決して私の足を洗わないでください。《ヨハネ 十三・8》」 その時イエスさまはおっしゃいました。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。《同 十三・8》」 ペテロは慌てて言いました。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。《同 十三・9》」 するとイエスさまはおっしゃいました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。《同 十三・10》」

このイエスさまのみことばから、私たちはとても重要な真理を知ることができます。イエス・キリストの十字架の血を信じ、罪が赦され、キリストにつくバプテスマ:洗礼を受けた者は、すでにきよい者とされているのです。このようにして、きよめられた私たちは、神を見ることができるのです。神を見るというのは、どういうことでしょうか。それは、私たちが風を見るのと同じようです。風自体は、空気の動きなので見ることは出来ません。けれども、風に吹かれて葉がそよいだり、雲がたなびいたり、時には大きなものが動いたりするのを見て、風を見ることができます。神を見るとは、心の目によって神を見ることができるようになり、神が働いてくださったので、今、この事が起きていると分かるようになる、ということです。そして更に、神を求める思いが起こされ、神と親しく交わることを望むようになるのです。聖霊なる神さまが私に働きかけてくださると、私自身の心の状態や心の様子が教えられます。私が何にこだわり過ぎているのか、何に囚われ、苦しめられているのか、聖霊さまは教えてくださいます。このような体験をすることによって、明るい人生を送ることができるのです。自由に生きることができるのです。ですから私たちは、いつも聖霊さまに心をきよめて下さるよう、祈り求める必要があります。きよめられた心でささげる祈りによって、私たちの家庭、学校、毎日の生活に天のお父さまが働いてくださり、天の父なる神さまを見ることができるのです。心のきよくない人は、神さまを見ることができません。きよめられた心に、神さまの恵みは注がれるのです。

お祈り:私と家族をきよめてくださる天のお父さま、感謝します。罪の赦しと愛、恵みを感謝し、賛美します。罪の赦しときよめの恵みが、私と家族の上に豊かに満ちあふれますように。毎日きよめられる家族としてください。毎日、キリストだけを信頼し、お父さまの御前に進み出ることができる家族としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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