モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」《出エジプト記 三・3》
神さまの召命を受け、神さまに呼び出されたモーセは、神さまから特別に選ばれたことを非常に誇らしく思いました。「私はエジプト王国の王子。文武両道に優れ、軍隊の司令官、働き盛りの40歳。私以外に誰がエジプトで奴隷とされているイスラエルを救えよう。神さまが私を召された、呼び出されたのは当然だ」と考えたことでしょう。モーセの胸の中には、人間中心主義がまだまだ一杯でした。神さまを利用することだけを考えたのです。神さまを信頼するよりは、自分の能力と手段と方法で、イスラエルの民を救い出す計画と行動を考えていたのです。
まず自分の考えの通りにエジプト人を殺し、砂の中に埋めました。その次の日、イスラエル人同士が争っているのを見て「仲間割れしている場合ではない。直ぐに仲直りしなさい」と言いました。ところが、そのイスラエル人は、昨日モーセがエジプト人を殺したことを知っていたのです。モーセがイスラエルの民をエジプトから救い出そうとしていることがファラオに通報され、逮捕命令が出されれば死刑になると知ったモーセは、エジプトの隣国ミディアンの荒野に逃げました。そこで羊飼いとなって暮らしていたモーセは、孤独と悲しみと寂しさから、人生は空しいということを自分の身をもって痛感しました。若い頃に頂いた神さまからの召命、神さまの目的のために呼び出されたことも、いつしか疑うようになりました。また、モーセは自分自身に幻滅しました。今まで自分で何でもできると思っていたのに、羊飼いのモーセは、自分では何一つ出来ないことを知ったのです。
贅沢な宮殿の暮しから一転して、寂しい砂漠の暮らしに導かれたモーセの姿から、私たち救われて間もないキリスト者が、どのように神さまからの訓練を受けるのかを学び取ることができます。
毎日、神の山ホレブ山の周囲を回りながら、モーセは羊を追っていました。その中で日々、自己中心のモーセ、自分を信頼しているモーセ、自分の利益だけのために生さるモーセは、死んで行ったのです。そしてミディアンに来てから四十年が過ぎ、八十歳となったモーセ。髪の毛はすっかり白くなり、モーセの中の生まれながらの心遣い、古き人は完全に砕かれ、荒野でよく見かける薪にして火にくべる柴のように、枯れたモーセだけが残りました。
キリスト者も、神さまから呼び出されて、神さまの御前に進み出る生活を始めると、あちらの壁、こちらの壁にぶつかり、砕かれる日が必ずやって来ます。そして袋小路、行き止まりとなった道で、孤独と絶望を体験します。自分自身に幻滅する日が必ずやって来ます。神さまは必ず、このように私たちの心の奥底に強くはびこっている人間中心主義を砕かれるのです。いつも緑の牧場に伏させてくださる、いつもいこいの水のほとりに伴われるという経験だけではなく、心の奥底に強くはびこっている人間中心主義を砕くために、死の陰の谷を歩ませられる時もあるのです。そんな時には驚かず、信仰に堅く立ち、キリストの道を大胆に通過しようではありませんか。この道を通過した時はじめて、神さまの御業が現れるのです。
お祈り:造り主なる天の父なる神さま、感謝します。主の恵みに心から感謝します。私たちは、神の御心の通りの人生を送るよりは、自分自身の考えの通りに行動し、語ることばかりです。どうか真理に立つことができるようにして下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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