アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。《マルコの福音書 十五・43》
イエスさまが十字架にかかられたとき、主イエスさまは、天と地のすべての主権と権力を持っておられるので、もし主が十字架から降りようと思えば、十字架を避けることが出来ました。イエスさまは、水をぶどう酒に変えたお方です。ゲラサの墓に住む人を悪霊の軍団から解放されたお方です。また、ガリラヤ潮の嵐を「黙れ。静まれと」一言で静めたお方です。そのイエスさまが十字架の刑罰から助かろうとしたなら、助からないはずがありません。
愛する皆さん。イエスさまは、自ら進んで十字架にかかられたのです。ユダヤ人の指導者がローマ兵を従えてイエスさまを捕まえにやって来たとき、イエスさまはおっしゃいました。「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。《マタイ二十六・53~54》」 そうです。イエスさまは、聖書に書かれている通りに、十字架にかかられたのです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられた《イザヤ五十三・4》」と書かれているように、イエスさまは、私たちの罪を贖うため、自ら進んで十字架に上られたのです。
ここで考えてみましょう。神のひとり子がこのようにされているとき、天の父なる神さまはどんなお気持ちだったのでしょうか。天のお父さまは、黙ってご覧になっていました。天の父なる神さまは、敢えてイエスさまに私たち人間のすべての罪を背負わせ、身代りに罰せられたのです。罪のないお方が、私たちの罪のために罰せられたので、もはや誰をも罰することはなさらないのです。十字架の上で流されたイエスさまの血が、今私たちの毎日の生活を贖っているのです。イエス・キリストの血潮によって、病から解放されるのです。今のいろいろな苦しみと悩みと病が私たちに襲いかかり、私たちを押しつぶそうとします。しかし、イエス・キリストの流された血潮を仰ぐとき、私たちは完全に解放されるのです。私たちのために天地を創造された神の子が、死んで、墓に葬られました。私たちの罪を背負い、罪の支払う報酬をすべて支払ってくださったのです。イエスさまは、天の父を愛するがゆえに、また私たちを愛するがゆえに、死なれ、愛するがゆえに、墓に葬られたのです。私たちは、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見るとき、父なる神さまの愛を知ることができるのです。
十字架以外に、私たちには、永遠の裁きから逃れることのできる場所はありません。私たちの救い主イエスさまの十字架と、死と、埋葬は、私たちに対する神の裁きが、すべて完了したこと、終わったことを信頼しましょう。イエスさまは、私たちに平安を与えてくださいます。
お祈り:一粒の麦が地に落ちて死ぬように、私たちの罪のために死なれ、墓の中に三日間葬られたイエスさま、感謝します。どうか私たちもイエスさまのように、隣人のために自我に死ぬことができる者としてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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