9月2日 悲しむ者

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。《マタイの福音書 五・4》

きょうのみことばの「悲しむ者」とは、「いつも神に立ち返る人」という意味です。自分自身が不完全な者であること、自分がしたくないと思っていることをしてしまい、言いたくないことを言ってしまうこと、神に従いたいのに従えないことなど、自分の中に二人の人がいるような生活を送っていることに苦しみ、悲しんで、神にいつも立ち返り、神さまの助けを求める人のことを言っているのです。今の時代、クリスチャンの中に、このような苦しみを味わい、悲しみを感じている人が、見られなくなりました。

クリスチャンは教会では静かで、おごそかで、重々しい礼拝をささげるべきだと考えます。けれども、聖書を見ますと、使徒パウロは次のような告白をしています。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか《ローマ 七・24》」と、自分自身を悲しんでいるのです。

今、正直に暮らしている人は皆、悲しんでいます。そのような人は、今の社会が、悪を正しいとし、正しい事を悪としていることを嘆いているのです。また、自分自身もそのような社会の中で、そのような人々の中で、矛盾を感じながら生きていることに苦しんでいるからです。正しくないと知りながら、自分自身の能力のなさに悲しみ、世の考えや価値観に流されて生きていることに苦しんでいるのです。したくはないのに、周囲の人々からやり玉に上げられることを恐れて、仕方なくしなければならないことに悲しんでいるのです。でも、大方の人は、直ぐに心が鈍くなり、悲しむことを止めてしまいます。ところが、キリスト者は、その悲しみを祈りの声にして、神さまの御前に上げるのです。その時、神さまから慰めを受けるのです。

この慰めとは、どのような慰めでしょうか。第一に、イエス・キリストの十字架の血潮によって、私たちの罪がみな赦され、ただ信じるだけで救われるという慰めです。第二に、神さまは新しい天と地を創造され、そこでは神さまがすべての罪と悪を取り除かれます。また、神さまが一人ひとりの地上での生活に対して、正しい報いを与えて下さるのです。ため息もなく、悲しみもなく、死もない、麗しい世界が現実に約束されているのです。これは大きな慰めです。この慰めを、私たち人間だけでなく、神によって造られたすべての者が待ち望んでいます。人の罪によって、私たち人間が呪いのもとにあるだけでなく、被造物すべてが呪いの下に置かれているからです。人が悲しんだり、苦しんだり、もだえたりするのは、みな罪のためです。この罪は、アダム以来の全人類の不従順と高ぶりが原因だと聖書には書かれています。「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか《ローマ八・22~24》」と、聖書に書いてある通りです。

今、悲しんでいる人には、キリストの十字架による慰めが与えられるのです。十字架の前で、悲しみの重荷を下ろすことができます。悲しむ人、悲しむ家庭、悲しむ民族の上には、十字架によって与えられる祝福が臨みます。神の慰めが臨みます。「【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、魂の砕かれた者を救われる《詩編三十四・18》」のです。

お祈り:慰め主なる天のお父さま、感謝します。私と家族に慰めの約束を与えてくださり、ありがとうございます。私はいつも神の御心の通りに生活したいと願っていますが、弱いため実行できません。今、悲しみます。神さまに立ち返ります。神さまを信頼します。聖霊さま、慰めを与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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