心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。《マタイの福音書 五・3》
きょうから8回にわたって、幸福な人について学んで参りましょう。
《マタイの福音書 五章》には、幸いな人について書かれています。幸いな人が野に行くと、野が祝福され、家に入れば、家が祝福されます。《マタイ 五章~七章》は、モーセの律法を、救い主イエスさまが正しく解釈した内容をお語りになっています。モーセの律法を行おうとするなら、その人は、「心の貧しさ」を知るのです。
今、自分の心が貧しいことを悟っている人は、ほとんどいません。死に至る病にかかっていながら、自分がその病のことを知らない人がいるとしたら、本当に悲惨なことです。「いいえ、私はこんなに物を持っていて、豊かです」と言う人がいるでしょう。けれども、聖書は警告しています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。《ヨハネの黙示録 三・17》」 主が言われた「心の貧しい者」というのは、自分の心が本当に渇き切っていて、その渇きをいやす方法を知らないことを悟る人を言うのです。現代の人々は、文明が作り出した便利な道具を持っていて、一見幸福そうに見えます。でも心の中は、何の確信もない、永遠のいのちもない、空しい人生を送っています。
けれども、天の父なる神さまの御前で、心の渇きを発見するとき、神さま以外には自分を救い、助けて下さるお方はいないことを悟ることができるのです。この時、人は初めて「心の貧しい者」となるのです。
では、なぜこのような「心の貧しい人」に、天の御国が祝福として与えられるのでしょうか。「心の貧しい人」はこの世にある富、お金や名誉、有名になることによっては、心の渇きをいやすことはできないからです。「心の貧しい人」の心を満たすのは、ただイエス・キリストだけなのです。イエス・キリストが心の中に入ると、天の御国が臨みます。神さまの国の民となり、神さまの支配を受けるようになります。この様に、神さまの支配を受けると、神さまはその愛する者のために全てのものを備えて下さり、聖霊さまによって「心の貧しい人」に、このことを教えてくださるのです。こうして、ダビデのように告白する心の豊かな人に変化させられるのです。「【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。《詩篇 二十三・1》」
このように、聖書が言う「心の貧しい人」とは、神さまの御前で自分を捨てて、神さまに全面的に信頼する人のことです。このような人は、イエス・キリストによって富んだ人となり、天の御国を受け取るのです。
「心の貧しさ」は、悔い改めによってだけ与えられます。憩いのための池の水面に美しい風景が映るように、貧しい心に天の御国が映るのです。
お祈り:私と家族を導いてくださり、励ましてくださる天のお父さま、感謝します。罪と心の中の欲望、そしてイエスさまに従わないことによって、私の心は汚れています。イエス・キリストの尊い血潮によって、この罪と悪を私と家族から洗い流してください。聖霊さま、私と家族がいつも聖書の言う「貧しい心」を持つことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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