9月27日 慎むべきこと

幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。《詩篇 一・1》

きょうは、主の祝福を受けている人が、慎まなければならない事について学んで参りましよう。

第一に、きょうのみことばに、「悪しき者のはかりごとに歩まず」と書かれています。一般的に、悪者とは、凶悪な人のことを言いますが、聖書が言う悪者とは、神さまを認めず、自分中心の生活を送る人のことを言います。「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを《エレミヤ二・13》」と、神さまを捨て、自分の欲望のために生きている姿が記されています。

このように「悪しき者のはかりごと」」とは、自分中心の考え方、人間中心主義の考えを言うのです。人類の祖先であるアダムとエバも、何か凶悪な事件を起こした結果、エデンの園から追い出されたのではありません。ただ、神さまが「取って食べてはいけない。」と言われた、善悪を知る木の実を取って食べたので、追い出されたのです。善悪を知る木の実を取って食べるということは、神さま中心に生きず、神さまを認めず、神さまに背を向け、人間中心に生きる、人間の知恵と力によって生きることなのです。

第二に、「罪人の道に立たず」と書かれています。罪とは、ギリシヤ語で「ハマルティヤ」と言います。これは、的(まと)に向かって射た矢が、的から外れる事を言うのです。「罪人の道に立つ」とは、いつも的外れの状態にあることを指します。天のお父さまが、私たち人間のただ一つの的です。神さまとの親しい関係、神さまとの正しい関係が、人間にとって最も大切です。私たちは、イエスさま中心に生きるとき幸せですが、イエスさま中心の生活から外れたなら、不幸せです。もし今、罪人の道に立っているなら、早くイエスさまの尊い血潮を信頼し、主のもとに立ち返りましょう。

第三に、「嘲(あざけ)る者の座に着かない人」と書かれています。嘲る者とは「神さまはどこにいるのか?こんな事が起こってしまい、神さまなどいるのか? 私は自分だけを信じる!」と、主なる神あまを嘲笑い、主を信頼しない人で自分を信じる人のことを言います。

このようなことを慎み、主なる神さまに祝福される者となりましょう。

お祈り:私たちの王であられ、愛と正義をもって私たちを治めてくださる天のお父さま、感謝します。私が的はずれな生活をする時、横道にそれる時、どうか聖霊さま、元の道に、義の道に連れ戻してください。天のお父さまに豊かに祝福される人となれますよう、聖霊さま、お導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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