私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。《ガラテヤ人への手紙 二・19~20》
キリスト者とは、ただひとりの主に仕える人です。ただひとりの主とは、宇宙と太陽、月、星のすべて、そして地球とその中に満ちているすべての物を創造なさった主なる神さま、イエスさまです。それゆえ、主なる神さまを主人として仕えるキリスト者は、どのような時にも、どのような場所でも、どのような状況でも、主の僕(しもべ)です。僕(しもべ)は、自己主張をしません。僕は、主人の考えに完全に従います。僕は、利害によって主人に不服を訴えたりしません。「このことは、自分にとって徳になることだから従う。これは、自分が損することだから従わない」というように、自分の利害によって生きません。主人がいのちを要求すれば、主人のために喜んで犠牲になります。
パウロは宣言しました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 主なる神さまが私のご主人であり、私は奴隷だ、とパウロは宣言しているのです。このような考えを持つに至るには、一日でたどり着けません。主なる神さまを、自分自身の生活の中で体験する必要があります。多くの試練、困難や苦しみ、様々な問題を通った後、始めてこのような生き方を自分のものとすることができます。今、毎日の生活で不幸が起こるのは、自分の仕える主人を選び間違っているため、また間違った主人に仕えているからです。私たちが主なる神さまを自分の主人として選び、主なる神さまにだけ、どのような時にも、どのような場所でも、どのような状況でも、お従いする心を持つ時、神さまは私たちの生活を導いてくださり、私たちに対して責任を取ってくださいます。
イエスさまはおっしゃいます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。《マタイ 十一・28》」 人は、自分が自分の人生の主人となって、自分の人生の重荷や問題を解決しています。自分の人生の重荷や問題のすべてを、人が解決することなどできません。イエスさまを自分の主人として選び、イエスさまにだけ仕え、すべての重荷や問題をイエスさまに委ねましょう。その時、イエスさまは私たちの生活に責任を取ってくださいます。重荷や問題を解決してくださいます。
主イエスさまに、どのような時にも、どのような場所でも、どのような状況でも、お従いするためには、自我が砕かれて、イエスさまに全てのことについてお頼りする心が必要となります。自我が砕かれるには、色々な経験をする必要があります。一朝一夕になるものではありません。イサクの息子のヤコブは、まさに砕かれた人でした。彼は生涯を通じて砕かれる経験をしました。息子のヨセフは、エジプトで奴隷とされていた間、魂が砕かれました。モーセは、ミディヤンで羊飼いをしていた40年の間に砕かれました。このように、私たちの信仰の先輩たちは、長い歳月をかけて砕かれた後、自分中心の考えを捨て、主なる神さまを心の王座にお迎えし、神さまに用いられる人となりました。
神さまは、外見を見て人を選びません。「この人には知識がある。お金持ちだ。有名な人だ。」これは人の考えです。神さまは、心の砕かれた人を用います。砕かれた人とは、神さまを完全に自分の主人として選び、主にだけお仕えし、主の命令に従う人です。ところが私たちは、一朝一夕にそのようにはなれません。火のような試練や問題を通過しながら、少しずつ砕かれます。火のような試練や問題にあうとき、恐れてはいけません。心をくじいてはなりません。「私の自我を神さまが砕こうとなさっている時だ」と、感謝しましょう。このような火のような試練や問題を通して、天地の主である神さまの僕(しもべ)として、完全な従順を学ぶことが出来るのです。
お祈り :試練や問題を通して、私たちを砕き、恵みを下さる天の父なる神さま、感謝します。私と家族がただお一人の主なる神さまだけに仕えるようにしてください。今まで、自分を主人とし、自分に仕えていた罪を赦してください。信仰の正しい姿勢を持つようにしてください。私と家族がいつも主にお仕えし、キリストの福音を信頼し、イエスさまの姿に似る者となれますように。また、隣人と日本が変わるため、祈り続け、仕え続けることができるよう、聖霊さま、お導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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