そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。《ローマ人への手紙 十二・1》
先ず、「誤解の器」に入れられた私たちが主にすべてを委ねる決心をし、主を信頼して耐え忍んでいると、私たちからは、イエスさまを信頼する信仰に交じっている色々な不純物、この世の考え方や態度、不信仰が取り除かれ始めます。すると次に、「試練の器」に移されると、私たちは「神の口から出る一つ一つのことばで生きる《マタイ 四・4》」ことを学ぶように導かれます。その次の第三番目に入れられる器は、天の父なる神さまに私たちのすべてをささげる「献身の器」です。
この「献身の器」の形は、大きく、ふたの部分が広い「かめ」のようで、その中に入っているぶどう酒が全部見えます。「献身の器」に入れられた私たちが神中心に生活する否か、周りの人には見えます。この器に入ると、自分自身の力では決してイエスさまを信頼し、立派な信仰生活を送ることができないことを心の底から知るようになります。聖霊さまに満たされ、聖霊さまに頼り、聖霊さまの力によって導いて頂かなければ、何もできないことを知るのです。
罪には、心の中で犯す罪と、実際に言葉や行動で犯す法律上の罪があります。アダムとエバが善悪を知る木の実を実際に取って食べたことは、法律上犯した罪です。また善悪を知る木の実を取って食べる前に、心の中で、「その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった《創世記 三・6》」と思い、食べたくなった時に、心の中でも罪を犯したのです。ですから、私たちは罪の赦しを受けるとき、実際に神さまのことばに違反し、法的に犯した罪だけでなく、心の中で犯した罪も赦して頂かなければなりません。
このように、心の中で罪を犯し、実際に神さまのことばに違反して法的に罪を犯す私たちは、頭のてっぺんからつま先まで、心の底から不義で、けがれていて、神さまに見捨てられて当然の者、地獄に行くしかない者です。けれども、イエスさまの十字架により赦されたのです。そして私たちはそれだけではなく、聖霊の火ですべての心の貪欲から解放されなければなりません。絶えず私たちを苦しめ、誘惑するすべての罪、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢の誇りなどを、聖霊さまの火で焼き払って頂かなければなりません。このように聖霊さまの力に信頼してこそ、天の父なる神さまの子として雄々しく立つことができるのです。
多くの人が長く教会に通い、この世の手段と方法を使って教会の中でも発言したり、行動したりしています。実際には、心の中で犯す罪をきよめることができずに、相変わらず不義で、けがれた生活を送っています。根本的に生活を変えるためには、私たちの努力によるのでもなく、行いによるのでもなく、ただ神の霊、聖霊さまを信頼し、聖霊さまにすべてを委ねる時、心の底から変えて頂けるのです。聖霊さまがご支配してくださるのです。その時、神さまに自分自身のすべてを献げる者と造り変えられるのです。
お祈り:十字架の死に至るまで私たちを愛し、救って下さったイエスさま、感謝します。イエスさまの贖いの恵みによって、私たちは救われ、新しくされました。今からは、イエスさまのために生活します。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢、誇りにとらわれることのないよう、聖霊さま、お導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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