9月6日 世の光として輝く

曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、……いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。《ピリピ人への手紙 二・15~16》

光は、物事を明らかにする。クリスチャンなら、自らの人生を光で輝かせるべきである。或る人が、クリスチャンと一緒に一週間も暮らすなら、その人がキリストの福音を知るに至るほどでなければならない。クリスチャンが口を開く時、クリスチャンの言葉を聞く全ての人が、次のことを明らかに理解すべきである。「この人は、誰のものであり、誰に仕えているのか」ということである。また、クリスチャンの日々の行動の中に、イエスの御姿が映し出されるようにすべきである。

光は、道を示すためにある。私たちの周りにいる、暗闇に閉じ込められている人を助けるのが、クリスチャンである。また、その人たちに、いのちのことばを伝える使命が与えられている。罪人に救い主を指し示し、疲れた人に神の安らぎを教えるのである。人々は聖書を読んではいるが、その真の意味を理解できないことがある。サマリアで伝道した執事ピリポのように、私たちに尋ねて来る人に対し、いつでも神のみことばの意味と、救いの道と、敬虔な生涯を送ることについて、答える用意をしておくべきである。

光はまた、警告を与える際に用いられる。この国の海岸線には、岩場や浅瀬が多数ある。そには必ず灯台が建てられている。クリスチャンなら、この世には至る所に偽りの光が輝き、それゆえ正しい光が必要であることを知っていなければならない。サタンの手下である破壊者どもは、常にあちこちを行き巡っている。目的は、「ほんの僅かの時、快楽に耽るだけに過ぎない」と、不信仰な者に罪を犯すよう誘惑することである。サタンの手下どもは、偽りの光を掲げている。それに対し、私たちは全ての危険な岩場や浅瀬に真の光を掲げ、あらゆる罪を指摘し、その結果がどうなるかを教えなければならない。そうするなら、私たちは世の光となって輝き、全ての人の血に対し、何の責任もない者となることが出来るであろう。

最後に光は、非常に力付ける効果がある。クリスチャンにも、この力が与えられている。クリスチャンなら、口には親切なことばを持ち、心には深い思いやりを抱き、人を慰める者となるべきである。どこへ行くにも光を持ち運び、周囲に幸福を撒き散らすべきである。

「恵みの御霊なる主よ。私の内に住まわってください。 / そうすれば、私自身も恵みに満ち溢れる者とされます。 / 人を助け、癒すいのちのことばによって、 / あなたのいのちが、私自身の内にあることを明らかに示します。 / 雄々しく、柔和な行いによって、 / 救い主キリストを証しします。」

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