1月22日 ぶどうの木よ、何が優れているのか

人の子よ。ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。《エゼキエル書 十五・2》

このみことばを深く思い巡らしなさい。次のことが理解できる。主の御前でへりくだることは、神の民にとって当然なのである。

このみことばでは、神の民は、神のぶどうの木:神が管理している栽培種のぶどうの木と呼ばれている。野生種のぶどうの木に比べ、神の栽培種のぶどうの木のどこが優れているのだろうか。栽培種のぶどうの木は、良い土壌に植えられた。良い農夫である神が手入れをしてくださるので、実を結ぶようになった。主はそのぶどうの木を、神の宮にある聖所の壁の上に這わせてくださった。その結果、主の栄光を現す実を結ぶようになった。

しかし、もし神が管理されなかったなら、このぶどうの木はどうなっていたのだろうか。神の民を管理してくださるのは、聖霊なる神である。聖霊は、絶えず神の民に感動を与え、神の民を造り変え、神の民が主の栄光を現すようにしてくださる。この聖霊なる神がおられなければ、神の民はどうなっていたのだろうか。

信仰者よ。あなたには、何ら誇るべき根拠がないのである。このことを知り、自分自身を戒めなさい。決して高慢になってはならない。あなたが如何なる者であろうと、誇るべき根拠は何もない。あなたは幾つかの分野で、多くを所有するであろう。しかしそれは、神があなたに与えてくださったのである。神のおかげで、多くを所有したに過ぎない。自分の力や知恵で得たのではない。それゆえ誇るべきではない。あなたは本来、どのような者であったのだろうか。このことをよく考えて見なさい。過去を振り返って見なさい。神の恵みがなければ、あなたの人生はどうなっていたか考えて見なさい。今のあなたの心の内を探り、言動を見つめてご覧なさい。良心に責められるところはないか。何度も何度も神から離れたではないか。多くの咎を犯して来たではないか。その一つひとつの罪が、「お前には、神の子と呼ばれる資格はない」と告げてはいないだろうか。ただ神の恵みにより、あなたを新しく創造し、特別な存在としてくださったのである。一方的な神の恵みによる、と教えられないだろうか。

今のあなた、そう、真理に勇敢に従っている今のあなたに、知って頂きたい。もし神の恵みから遠く離れ、神の恵みがあなたに注がれなかったなら、今頃あなたはどうなっていただろうか。何ものも恐れずに、罪を大胆に犯す者となっていたはずである。今あなたが、今のあなたになれたのは、神の恵みのゆえである。あなたには多くの相続財産が与えられているが、決して誇ってはならない。あなたは、大きな恵みを受けるに値する者となった。しかしかつて、生まれながらにしてあなたの持っていたものは、罪だけである。また罪から生じる苦痛だけであった。今は、神の恵みを賜り、神が全てのものをあなたにお与えになったのである。そのような者でしかない。「自らを高めよう、磨こう」という妄想を抱くとは、何と不思議なことだろうか。あなたは実は、みじめで、哀れで、貧しい者である。惜しみなく与えられる恵みにすがるしかない、物乞いのような者である。

イエスから絶えず流れ来る生けるいのちの水がなければ、死んでしまう。そのような者である。それでも尚、自分を高め、誇ろうとするのだろうか! 笑止千万、何と愚かな心の持ち主よ!

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