私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。《雅歌 三・1》
キリストと共に時を過ごさなくなった場所はどこか、私に教えなさい。そうすれば、あなたがキリストを見い出せる場所がどこであるか、教えることが出来る。
密室の祈りを疎かにし、キリストと共に時を過ごさなくなったのだろうか。それなら、密室に戻り、そこでキリストを尋ね求め、キリストを見い出さねばならない。罪を犯したため、キリストと共に時を過ごさなくなったのだろうか。それなら、キリストを見い出せる道は他でもない、罪を捨て去ることである。情欲の住みつく肉体を、聖霊によって抑制して頂くことを求める以外にはない。聖書を無視したため、キリストと共に時を過ごさなくなったのだろうか。それなら、聖書の中でキリストを見い出さねばならない。
「落とした場所を捜せ。 失くしたものは必ずそこにある」ということわざは、或る意味、真理である。それゆえ、あなたが見失った場所に行き、そこでキリストを尋ね求めなさい。キリストはその場所を立ち去ってはおられないからである。しかし、このことを忘れてはならない。キリストを尋ね求めて立ち戻るには、困難が伴うということである。バニヤンは『天路歴程』の中で、次のように語っている。「『巡礼』は、巻き物をどこかに忘れて来た。『安楽という東屋』へと戻る途中の道端で、『巡礼』は巻き物を見つける。今までの歩みの中で、この引き返す歩みが最も苦しい道のりであった。」
失ったものを探し出すために1キロ戻るより、継続して二十キロ前進する歩みの方が、楽なのである。それゆえ、あなたの主を発見したならば、用心深くありなさい。主にすがりつき、みそばを離れないようにしなさい。
しかし、事の発端が何か、そのことを心に銘記せよ。それは、どうしてキリストと共に時を過ごさなくなった、ということである。或る信者は、たかをくくっていた。このように最高の友と別れることなど、私にはあり得ないと。この友であるお方が共にいてくださること自体、楽しみに満ちている。このお方がお語りになるみことばは慰めに満ちている。このお方には他に多くの友がいて、彼らもこのお方と共に歩んでいる。彼らもあなたにとって、親密な人々である。それなのに、「キリストを見失うことがないように」と、四六時中、主から目を離さないでいなかったとは、どうしたことだろうか。
キリストがあなたから離れるというのに、あなたは無頓着であった。にもかかわらず今、あなたが「ああ、キリストとどこでお会いできるのか、知ることが出来たら良いのに」と呻きながら、キリストを探し求めていることが許されていること自体、何といういつくしみであろうか。キリストを探し求め続けなさい。主が共にいない人生は、危険だから。キリストが共にいないなら、あなたはまさに「羊飼いのいない羊」のようである。また、水分が全くない乾き切った地に根を張っている木のようである。更に、大嵐の強風に吹き飛ばされる枯れ葉のようである。枯れ葉は、いのちの木から切り離されてしまったのである。
心を尽くしてキリストを探し求めなさい。そうすれば、主はあなたに見出される。ただキリストを探し求めること、この一事に励み、没頭しなさい。必ずやキリストを見い出し、あなたは主の喜びと楽しみに満たされるのである。
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