4月15日 わが神、わが神、どうしてわたしを

わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。《詩篇 二十二・1》

この聖句から、救い主が悲しみのどん底におられることが分かる。

キリストの深い悲しみをよく表現している場所は、カルバリ以外にはない。キリストは、「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。大気をつんざくばかりに、苦痛に満ちたキリストの叫び声が響き渡ったのは、カルバリ以外にはない。その時、キリストは魂の内に苦痛を負った。それと共に、キリストの肉体も極度に衰弱していった。キリストはここで、神からの恥辱と侮辱をお受けになっていた。キリストの抱いた悲しみは、その恥辱と侮辱を受けたことによって、最も深い所に達した。このキリストの告白したことばが、そのことをよく表現している。主はこの時、父なる神の臨在から投げ出され、御父から切り離されたのである。その結果、主は言語に絶する霊的苦悩をも味わわれた。これは、何を意味しているのであろうか。身の毛もよだつような真っ暗やみの暗黒の中に、キリストは降られた。つまりその時、主はシュオール:ハデスに降られたのである。主の叫ばれたこのことばを文字通りに体験し、全てを十分に理解できる「人」は、この地上には誰もいない。

「『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と泣き叫ぶような時が、私にもあった」と思う人もあるだろう。確かに、父なる神の御顔の輝きが、暗黒の雲に消されるような時期がある。しかし、決して忘れてはならないことがある。神が私たちを全くお見捨てになることは、断じてないということである。私たちの場合は、神に見捨てられたように思えるだけである。しかし、キリストは実際に見捨てられたのである。私たちは、父なる神の愛から少し引き離されたように感じ、そのことで悲嘆に暮れる。しかし現実に、父なる神は、御子からご自身の御顔をそむけたのである。この時の御子の苦悩の深さを、誰が推し量ることが出来ようか。

私たちはよく、主に向かって叫ぶ。それは不信仰に根差した要求である。しかし、イエスの場合、それは恐ろしい事実を表現していた。神はその時、実際に御顔をそむけたのである。かつては神の御顔の輝きの中に住み、今は暗黒の中にある、哀れな悩める魂よ。このことを忘れてはならない。神はあなたを見捨てられたのではない。暗黒に包まれている時も、恵みの輝きの中にいる時も、神は同じように、いつくしみ深い私たちの神であられる。「神は私たちを見捨てられたのでは」、と思うことによって、私たちはこのように苦しむのである。とすればなおの事、救い主が「わが神 わが神ど うして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた時の苦痛は、いかばかりであったことだろうか。

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