4月17日 キリストの血に近づく

しかし、あなたがたが近づいているのは……さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。《へブル人への手紙 十二・22、24》

読者の皆さん。あなたは「注ぎかけられたイエスの血」に近づいているだろうか。

この問いは、あなたが教理を知るようになったことを尋ねているのではない。また、儀式を守るようになったことを尋ねているのでもない。更に、或る種の経験をするようになったことを尋ねているのでもない。あなたが、イエスの血のもとに来たかどうかを尋ねているのである。生ける信仰を保つため、私たちには必要不可欠なことがある。イエスの血は、その中でも、最も中心のものである。

もし、あなたが実際にイエスの御許に来たのなら、私たちはあなたがいかにして来たかを知っている。聖霊がねんごろにあなたを携えて来られたのである。あなた自身の行いや功績、あなたに相応の価値があったからではなく、聖霊によって注ぎかけの血に近づいたのである。罪を背負ったまま、失われた者のまま、神のことに関しては無能なまま、あなたは近づき、キリストの血の注ぎかけを受けた。その血潮のみがあなたに永遠の希望を与えているのである。

あなたは、心震えながら、また痛む心で、キリストの十字架に近づいて来た。何と、そこであなたは、イエスの血が叫ぶのを聞いた。その叫びは、あなたにとって尊いことを語っている。その叫びはまた、主の血潮がしたたる所では、罪を悔い改めた地上の子にとって、天の御国で奏でられる音楽のように聞こえている。私たちは罪に満ちている。しかし救い主は、私たちの目を上げて、ご自身を仰ぎ見るように命じておられる。そして血潮をしたたらせる傷を私たちが見詰める時、その一滴一滴が叫ぶのである。「完了した。わたしは罪を終わらせた。永遠の義をもたらした。」

イエスの尊い血は、何と麗しいことを語っていることだろうか。もし、あなたが一度でも主の血に近づいたことがあるなら、あなたは常にその血に近づきたいと願うことだろう。あなたのいのちは、「イエスから目を離さないで《ヘブル 十二・2》」いるようになる。あなたの行為はことごとく、次のことばに要約されるようになる。「誰に近づいているのだろうか」ということである。「誰かに近づいたことがあるのだろうか」ということではない。常に「誰に近づいているのだろうか」ということである。

もしあなたが注ぎかけの血潮に来たことがあるなら、日毎に血潮に近づく必要を覚えることだろう。日毎にその血で洗うことを望まない者は、近づいたことがなく、一度も洗ったことのない者である。信仰者は、その泉が今もなお開かれていることに喜びを感じ、その泉を自分のために用い、適用出来る特権を感じる。過去に経験したことによって、クリスチャンは肉を誇り、信仰の弱い人の意見を裁いてしまう。信仰によって、現在キリストのもとに来ていることだけが、クリスチャンに喜びと慰めを与える。

今朝私たちは、戸口の門柱と鴨居に、イエスの新しい血を注ぎ、子羊を食し、破滅の天使が私たちを過ぎ越すのを確認しようではないか。

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