おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。《箴言 十一・25》
今朝のこのみことばから、私たちは大きな教訓を教えられる。「得るためには、与えなければならない。蓄えるためには、先ず散らさなければならない。幸福を願うならば、先ず他人を幸福にしなければならない。霊的に活気に満ちるためには、他の人の霊的向上を追い求めなければならない。他人を潤す人は自分も潤される。」どのようにすればよいのか。次に、5つのことを考えてみよう。
第一に、他の人の役に立とうとして、私たちが努力する時、有用な者とされる力が私たちから引き出される。私たちには、潜在的な才能や眠っている能力がある。それらは、訓練することによって、力を発揮するようになる。私たちには、目標を達成するため必要な力が与えられているが、そのことに自らも気づいていない。主の戦い挑むため、勇んで出かける時、或いは、険しい山をよじ登る時、自分にはその力が与えられていることに気付く。やもめの涙をぬぐい、両親のない子どもの悲しみを慰める時、初めて自分の内に優しい憐れみの心があることに気付くのである。
第二に、他の人を教えようとする時、私たちは自分自身が教えられていることに気付く。病の床において、素晴らしい恵みの教えを教えられた人が多くある。私たちは聖書を教えようとして出て行ったのに、却って聖書を余り知らないことに気付き、赤面して帰って来る。貧しい中にある聖徒と語り合うことによって、私たちは自らに対する神の道を更に完全に教えられる。また、神の真理を、更に深く洞察する力が与えられる。
第三に、他の人を潤す時、私たちは謙遜にさせられる。今まで気付かなかった恵みがいかに多かったかを、見い出すからである。また、貧しい中にある聖徒がいかに聖書を知っているのか、その知識は私たちを凌駕していることに気付くのである。
第四に、他の人のために働くことによって、自らを慰めることになる。私たちは、他の人を励ますために力を尽くす。その励ましは、私たち自身の心を喜ばせる。それはさながら、雪の中に二人の男がいた時の物語のようである。一人は、死に瀕している。もう一人は、死に瀕している男の手足をさすっていた。その結果、さすっていた男の血液の循環が良くなって助かったのである。
最後に、ツァレファテの貧しいやもめは、乏しい食物を預言者エリヤに分け、彼を助けた。そしてその日から、彼女は二度と乏しくなることはなかった。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。《ルカ 六・38》」
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