10月15日 主の御前に立つ時

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。《マラキ書 三・2》

初臨のキリストは、人の目に華やかに映ることもなく、神としての力を示すこともなかった。これは、信仰を試みるためであった。実際、この試みに耐え、主に「よし」と認められた者は殆どいなかった。ヘロデ大王とエルサレム中の人々は、キリストの驚くべき誕生の知らせを聞き、動揺した。メシアを待ち望んでいた者たちは、実際に来られた主を拒否した。彼らは、自らの告白が偽善であることを暴露した。キリストの地上生涯は、ふるい分ける箕であった。主は、山ほどもある宗教上の告白をふるいにかけた。主のこのお働きに耐えることの出来る者は、殆どいなかった。

主が再臨なさる時は、どうなのだろうか。そのことを考えてみることさえ、罪人は耐えられない。「口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。《イザヤ 十一・4》」これが再臨の主の御姿である。ゲツセマネの園で、主は辱めをお受けになった。その時、主は兵士たちに、「それはわたしです《ヨハネ 十八・5》」と仰せられた。たった一言であったが、兵士たちは後ずさりし、地に倒れた。再臨の主が「わたしはある」と、ご自身の全てを啓示なさる時、主に敵対する者たちの恐怖はどれ程だろうか。

キリストが死なれた時、地は震え、天は光を失った。生ける救い主として、生ける者と死にたる者とを、ご自身の御前に呼び出される、その日の恐ろしい光景はどれ程だろうか。主に裁かれるその恐怖により、人々は説き伏せられ、自らの罪を捨て、神の御子に口づけすることが出来ますように。御子が彼らに向かい、お怒りになることがありませんように。

主は子羊であられるが、ユダ族から出た獅子であられ、獲物をばらばらに引き裂かれる。主は、傷んだ葦を折ることは決してなさらないが、鉄の杖で敵を打ち砕かれる。陶器師が手にある陶器を粉々にするように、主は打ち砕かれる。キリストの敵は誰も、主の怒りという大嵐に耐え、立ち続けることは出来ない。また、キリストの憤りにより注がれる、荒れ狂う雹から身を隠すことは出来ない。これが大患難時代である。しかしこの患難時代、恵みにより、キリストの血によって洗われた、主に愛される民が起こされる。その人々は、喜びをもってキリストの現れを待つ。また、恐れることなく、この地を襲う患難に耐えることを望む。主は、今も信仰を精錬するお方として、御座に座しておられる。主が彼らを火によって鍛えられると、彼らは金のように純粋な者となり、出て来る。

この朝、主に私たちの内側を探って頂こうではないか。そして、私たちに与えられた召しと選びとを確かなものとしよう。携挙、そして主の再臨という出来事により、私たちの心が暗い思いにならないようにしようではいか。

すべての偽善を打ち捨て、主がおいでになる時、純真で非難されるところのない者となる恵みを、主よ、願い求めます。

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