1月8日 私たちの咎を負った偉大な大祭司

すべての聖なる献上物に関わる咎を負う。《出エジプト記 二十八・38》

このみことばにより、覆いが取り除けられ、心の内に隠されている秘密が明らかにされる恵みの与えられることを願い求める。罪があらわにされることは、一見悲しそうに見える。現実は違う。このみことばを深く思い巡らし、しばらくの間、共に立ち止まろうではないか。必ず、私たちは謙虚にされ、有益な教訓を得ることが出来る。

公の礼拝で、不義や偽善、形式主義や不熱心、不遜や傲慢が見られる。一見、礼拝をささげているようだが、実のところ、心が迷い、神から離れている。にもかかわらず、礼拝に満足し、充実した時間を過ごしたと思っている。主にお仕えする奉仕であるにもかかわらず、その奉仕の中に競争意識がある。更に、利己主義、軽率な言動、怠慢、馴れ馴れしさ、不信仰など、多くの汚れがあることは、驚くべきことである。個人のディボーションや個人的な礼拝も同じ有り様である。生ぬるく、冷たく、さぼりがちであり、幾度となくあくびをし、寝入ることさえある。神との親しい交わりのない、毎日行う「お勤め」のように行うディボーションである。これも驚くべきことである。さながら、埋め立て用の土砂がうず高く盛られた山のようである。この土砂を詳しく調べてみなさい。実に多くのゴミが混じっているではないか。公の礼拝や個人のディボーションが、このような状態である。

ペイソン博士は弟にあてた手紙で、次にように書いている。「私の遣わされた地は、さながら私の心のようだ。即ち、怠け者が住んでいる家の庭のようである。遣わされた地で多くの収穫を得るため、私の心をきよめようとする。その動機は、次のような私の欲望から出ている。高慢や虚栄、または怠惰であった。庭に生い茂った雑草を見て、庭をきれいにしようと考えている。だが、なぜそう考えるのか。私の動機は何か。庭を散歩しながら、『我が家の庭は、何と手入れが行き届いてることか』と自らの働きを誇り、ひとり悦に入るためである。これは高慢である。或いは、隣人が垣根越しに我が家の庭を見て、『お宅の庭は立派ですね』とほめてもらうためである。これは虚栄心である。或いはまた、雑草を根こぎにするため、むしり取るには、時間と体力と労力が必要である。それよりも遥かに簡単な方法で雑草を根絶やしにしたいと望んでいる。これは怠惰である。注意深く主に心の中を探って頂くと、私たちが聖さを願う動機でさえ悪から出ていて、その願いが汚れていることに気付く。それは、きれいに手入れのされた庭の青々とした芝生に、毛虫が隠れているようなものである。」

大祭司は「聖なる献上物に関わる咎を負う」時、彼の額には「主への聖なるもの」と記した「札」が掲げられた。これは、天の至聖所で仕えておられる主イエスの姿を予表するものである。視聴覚教材であり、型である。主イエスは、私たちの罪を負われる時、私たちの汚れを神の御前に差し出すことは、決してなさらない。主イエスが父なる神におささげになるのは、ご自身の聖さと義である。 主よ。信仰の目をもって、偉大なる大祭司を見る恵みが与えられることを、乞い願います。

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