しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は……私たちを慰めてくださいました。《コリント人への手紙 第二 七・6》
「気落ちした者を慰めてくださる神は……私たちを慰めてくださいました。」その通り、神のように慰めることの出来る者が、他に誰かいるだろうか。
どことなく哀れで、憂いに沈み、悲嘆に暮れいている、あの神の子とされた人のもとに行き、神の麗しい約束を告げなさい。その人の耳もとで、予め準備して来た慰めのことばを一つひとつ、ささやいてご覧なさい。しかし、その人はまるで、耳の聞こえない毒蛇のようである。その毒蛇は、へび使いの声に耳を貸さない。へび使いに操られるようなことは決してない。同様に、その人が飲むものは、苦よもぎと苦味だけである。知恵を尽くして慰める甘い言葉を受け入れることはない。その人からは、悲しみに沈んだ諦めのことばが、ぼそぼそと返って来るだけだろう。神への賛美の歌や、ハレルヤと叫ぶ声も、喜びのソネット:韻を踏んだ叙情詩が、その人の口から聞こえて来ることは、決してない。
しかし、神がその人のもとに来てくださり、その人に「【主】が御顔を向け《民数記 六・26》」られたなら、喪主のように悲嘆に暮れていたその人の目は、輝く。その人は次のように高らかに歌い、その歌声はあなたの耳に届くことだろう。
「主よ、あなたがここにおられるなら、ここは楽園です。 / 主のおられない所は地獄です。」
読者よ。あなたには、その人を励ますことはできなかった。
しかし、主にはその力がある。主は「すべての慰めの神《Ⅱコリント 一・3》」である。ギルアデには、肉体の傷を癒す「乳香:薬」がある。それよりも遥かに優れた「乳香:薬」を、神はお持ちである。被造物である人間には、悩みを癒すことの出来る内科医はいない。しかし創造主は、「わたしは【主】、あなたを癒やす者:ヤハウェ・ラッファ《出エジプト 十五・26》」である。その創造主である神の口から語られる麗しい一言によって、クリスチャンの心には、神から与えられるあらゆる賛美が満ちる。これは驚くべきことである。神の口から出る一言は、金の一片のようなものである。クリスチャンは金箔師であって、その約束を何週間分にも亘って打ち延ばすことができる。
それゆえ、クリスチャンよ。哀れにも、絶望したまま座っている必要なない。立って、慰め主のみもとに行きなさい。そして「主よ。私を救い出してください。慰めをお与えください」と祈りなさい。井戸から水を汲み上げられないなら、渇きをいやすことは出来ない。あなたは今、そのようである。ポンプを押しているにもかかわらず、井戸から水を汲み上げられない時、次のように教えられた。「先ず、呼び水を注ぎ入れよ。そうすれば、水を汲み上げることができる。」それゆえクリスチャンよ、渇いているなら、神のみもとに行き「主の喜びを私の心に注ぎ入れてください」と祈り求めなさい。そうすれば、喜びが溢れ出るようになる。
慰めを求めるため、地上の知人のもとに行ってはならない。あなたが彼らから得られるのは、結局のところ、ヨブを慰めるためにやって来た三人の友の口から出たのと同じ言葉である。まず何よりも「気落ちした者を慰めてくださる神」のみもとに行きなさい。そうすれば、直ぐに次のように言うことが出来る。「私のうちで思い煩いが増すときに あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてくださった。《詩篇 九十四・19》」
注: 「ギルアデ」とは地域を指す名称である。ヨルダン川東岸の、北はガリラヤ湖の南東を流れるヤルムク川から、南はヤコブが神の御使いと格闘した場所を流れるヤボク川までの一帯を指す。この一帯は、ほぼ高原で、樹木が多く、牧草も豊富で牧畜が盛んであった。また、乳香の産地でもあった。この乳香は、高さ5m前後の漆科の常緑小高木。幹や枝を傷つけ、樹脂を分泌させる。淡黄色のかたまりにし、芳香ゴムとし、薬として市場で売られていた。
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