私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。《雅歌 二・8》
「私の愛する方」。これは、イスラエルの最も栄えた、いにしえの時代の真の信仰者が、主に油注がれたお方メシアに与えた尊い呼び名である。
季節が春を迎えると、鳥のさえずりが一段と高く聞こえて来る。野の動物たちの、つがう相手を求める鳴き声が聞こえる。同じように、イスラエルが栄え、春の季節を迎えたような時代の信仰者たちが歌い上げる愛の調べは、動物たちの鳴き声よりも遥かに麗しく響く。信仰者は歌う。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています《雅歌 二・16》」この雅歌の中で、真の信仰者たちは常に「私の愛する方」と、麗しい名で主に呼びかけている。
長い冬の季節となり、偶像崇拝によって主の花園は枯れてしまった。つまり、イスラエルは暗黒の時代を迎えた。この暗黒の中で、預言者たちは束の間でも主に重荷を下ろせるところを見い出し、イザヤと同じことを言った。「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を《イザヤ 五・1》」。イスラエルの真の信仰者は誰一人、まだ主の顔を拝したことがなかった。主もまだ肉の衣をまとってはおられず、イスラエルの民の間に住んでおられず、主の栄光を見る者は誰もいなかった。それでも尚、主はイスラエルを慰めてくださった。選ばれた真の信仰者にとって、希望と喜びを与えてくださるお方であった。至高のお方の御前で義とされた全ての真の信仰者にとって、主は「愛する方」であった。
教会が勢い良く成長し始めた夏の頃、私たち教会の聖徒もまた、キリストを私たちの最も「愛する方」とお呼びしたいのである。主はこの上もなく尊く、「輝いて赤く、万人に抜きん出《雅歌 五・10》」たお方であると叫びたい。
教会はイエスを愛し、「私の愛する方」とお呼びしている。主はまさに、愛されるに値するお方なのである。使徒は、キリストにある神の愛から教会を引き離そうとする、被造物の全てに対して敢然と挑んでいる。使徒は、次のように宣言している。「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。《ローマ 八・35》」何物も不可能である。続いて使徒は、喜びに満たされ、主を誇っている。「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。《ローマ 八・37》」
神よ。常に尊くあられる主よ。私たちが更に深く、あなたご自身を知ることができますように。
「私の唯一の財産はあなたの愛です。 / 地の上、天の下に、 / あなたの他に誰を私は持ちましょう。 / ただ切にあなたに祈り、 / 日毎にあなたを乞い求め、 / あなたの他は何も願いません。」
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