1月11日 岩地に蒔かれた種

自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。《マルコの福音書 四・17》

わが魂よ。今朝はこの聖句が照らす光によって自らを顧みなさい。

あなたは喜びをもって、みことばを受け取った。あなたの感情は高揚し、強く感動を覚えた。しかし、次のことを忘れてはならない。単に耳から聞いてみことばを受け入れることと、あなたの魂にイエスご自身をあなたの主として受け入れることとは、全く別のことである。変わりやすい感情は、心の内に潜む頑なさと結びつく場合が多い。それゆえ、みことばによって生まれた強い感動が、長続きしないのである。

このたとえ話の中で、或る種は土の浅い岩の上に落ちた。種は根を下ろし始めたが、堅い岩に阻まれ、下へ下へと成長することが出来なかった。それゆえその種は、芽の部分を出来るだけ上へ上へと成長させることに、力を尽くすことにした。しかし、根から水分も養分も吸い上げることが出来ないため、芽を内側から潤すことが出来ず、枯れてしまった。

これを自分自身に当てはめようではないか。祈りやディボーションなどの内面の生活を持たないため、ただ外面を見栄よく飾ってはいないだろうか。良い成長は、上と下に同時に行われる。私の内面は、イエスに対する真実と忠誠と愛に根差しているだろうか。私の心に恵みを頂き、恵みによっていのちが育まれ、成長しているだろうか。良い種であるみことばは、必ず芽を出す。しかし、恵みが心の内を潤すことがなければ、その芽は遂には枯れてしまうのである。岩地のような、頑なで、砕かれていない、主のために自らをささげていない心の中では、みことばは大きく成長することは出来ない。

暑い日差しをさえぎり、預言者ヨナに日陰を提供した、あの「とうごま」のようになることを恐れよう《ヨナ書 四章》。とうごまは、みるみる成長した。しかし翌日、枯れた。このとうごまのような「信仰者」になることを恐れようではないか。イエスの弟子になるため、犠牲を払うことを決心しよう。とりわけ、聖霊の力を戴くため、聖霊に満たされることを願おう。そうするならば魂の内に、いつまでも成長し続けるいのちを宿すことが出来る。もし、あなたの心が生まれつきのままで、頑なであり、自我を主張するならば、その上には試練の太陽が照り付ける。地中深く植えられていない種に、炎熱が容赦なく照り付けることになる。種は枯れてしまう。同じように、襲い来る火のような試練にさらされる時、頑なな心に蒔かれたみことばは直ぐに死に、信仰を失い、恐ろしい失望の中に投げ落とされることになる。

それゆえ、天上の種蒔く人であられる主イエスよ。先ず私の心を耕し、それから真理のみことばをわが心の内に蒔いてください。そして、豊かな刈り入れを、主にささげることを得させてください。

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