他国人が【主】の宮の聖所に入ったからだ。《エレミヤ書 五十一・51》
「他国人が【主】の宮の聖所に入った…。」このことのため、主の民の顔は侮辱で覆われた。祭司だけに入ることが許されている聖所に、一般人が立ち入ることは恐ろしい事であった。
私たちの周囲にも、至る所に同様の悲しみがある。その原因は、驚くべきことであるが、不信仰な人が教会専従者の働きに就こうとして、神学教育を受けていることである。そのような人がどれ程多く存在していることだろうか。いかにも尤もらしい嘘により、私たちイギリス国民は名目上、国教会のメンバーとなっている。これは何と悲しい罪であろうか。宗教上の儀式を、未だ回心していない人に押し付けている。我が国の、知識に満ち、霊的洞察力のある諸教会において、このように規律が緩んでいる。何と恐ろしいことだろうか。
きょうの霊想を読んでくださる人の内、多くの人が今、この問題を主の御前に差し出すなら、主は聞き届けてくださり、或いは教会に降りかかろうとしている災いを回避してくださるかもしれない。教会の質を低下させることは、井戸を汚すことに等しい。また、火に水を注ぐことのようであり、肥沃な耕地に石を蒔き散らすことにも等しい。どうか恵みにより、教会に与えられている正しい方法により、全ての教会が自らの純潔を守ることが出来ますように。教会を国家の管轄下においてはならない。即ち、回心していない人が、儀式的に集まるようにしてはならない。主よ。キリストの教会が、真の信仰者の共同体とすることが出来ますよに。
しかしながら、私たちは熱心になって、このことを家庭から始めなければならない。私たちが、主の食卓である聖餐式に与る者として権利があるかどうか、自分自身を吟味しようではいないか。私たち自身が主の聖所に侵入する者とならないように、花嫁の着る服を身に着けているかどうか、確認しようではないか。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。《マタイ 二十二・14》」つまり、道は狭く、門もまた小さいのである。
主よ。神により選ばれたという信仰を持ち、正しく、真っ直ぐにイエスのもとに行くことの出来る恵みを、お与えください。
神の契約の箱が荷台から落ちそうになった時、契約の箱を支えようとして手を伸ばしたウザは、神によって打たれた。同じように、神はご自身の二つの聖礼典が正しく行われているかどうか、常にご自身の目を光らせておられる。真の信仰者は、はばかることなく聖礼典に与るため、近づくことが出来る。真の信仰者ではない者は、死ぬことのないために聖礼典に与ってはならない。心を探ることは、すべて洗礼を受けた者、すべて聖餐に与る者の義務である。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。《詩篇 百三十九・23》」
注:「英国国教会」とは、アングリカン・チャーチと呼ばれ、日本では「聖公会」と呼ばれている。16世紀、ジェームズ1世の時、ローマ・カトリック教会から独立した。司祭が教会の祭儀を司る。英国国教会の最高責任者は国王であり、国民は信者と見なされる。ローマ・カトリックでもなく、プロテスタント教会でもなく、中道を行く教会である。
「聖礼典」とは、イエス・キリストがご自身の教会にお命じになった2つのことを言う。1つが「バプテスマ:洗礼」であり、もう1つが「聖餐式:主の食卓」である。(カトリック教会では、更に5つを加え、サクラメント「秘跡」と呼んでいる。)
「ウザ」とは、《Ⅱサムエル 六・7》、《Ⅰ歴代誌 十三・9》に出て来る人物である。サウルが戦死した後、ダビデが正式に王位に就く。先ずダビデは、神の契約の箱をエルサレムに運び迎え、王国の礎を堅固に据えようと図った。しかし、その運び方はモーセの律法の定めに反するものであった。牛車の荷台に契約の箱を乗せたのである。途中、荷台が大きく揺れ、神の箱がひっくり返りそうになった。それを抑えようと、牛車の脇を歩いていたウザが神の箱に手をかけた。その瞬間、ウザは神に打たれて死んだ。契約の箱に、いかなる人であろうとも、手を触れてはならないからである。ダビデはこの事件に大きな衝撃を受け、契約の箱をエルサレム運び入れることを中止した。その後、時が経ち、レビ人に契約の箱を担がせ、ダビデは念願の契約の箱をエルサレムに運び入れることになる。
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