彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼う。《ミカ書 五・4》
キリストは、御自身の教会を支配しておられる。それは、王なる牧者であるお方が、羊を牧することである。キリストは至高のお方であり、主権をお持ちである。それは、賢く優しい羊飼いが、助けを必要としている愛すべき群れを、卓越した知恵と力によって導くことである。
キリストは、羊の群れにご自身に従うようお命じになる。羊たちは主に従う。その従い方は、羊飼いの懐の中で愛され、よく養われた羊たちが、喜びに満たされたものである。その羊たちは、愛する羊飼いの聞きなれた声をよく知っているので、心から喜んで服従する。主は、愛によってご支配し、善き事を精力的に行うことによってご支配するのである。この主のご支配には、3つの特徴がある。
第一に、キリストのご支配はその性質上、実践的である。「彼は立って……群れを飼う」と書かれている。教会の偉大なかしらであるお方は、親しくご自身の民を養ってくださる。空しく王座に座っているのではない。政務を執らずに、ただ王笏を握っているだけでもない。そう、「彼は立って……群れを飼う」のである。この「飼う」ということばのギリシア語本来の意味は、次のことである。羊飼いに期待されるすべてのこと、即ち、食物を与えることだけではなく、羊を導くこと、見守ること、保護すること、看護すること、世話をすることを意味している。
第二に、キリストのご支配は、その期間について、絶え間のないご支配である。「彼は立って……群れを飼う」と書かれている。「彼はたまに食物を与え、その後は持ち場を離れる」とか「彼は或る日、教会にリバイバルをお与えになり、次の日には、教会を不毛にされる」などとは書かれていない。主は決してまどろむこともなく、その御手は決して休むことがない。その心は決して愛の鼓動を止めず、その肩は御民の重荷を負い、決して疲れることがない。
第三に、キリストのご支配はその働きにおいて、実際のところ力強い。「彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼う」のである。キリストがおられる所にはどこにでも、神がおられる。キリストがなされることはどのようなことであっても、いと高きお方の御業でる。今日、私たち教会のかしらとして立っておられるお方が、まさに神の中の神であり、全ての膝が主の御前にかがむことを考えることは、何と喜ばしい真理であろうか。
このような羊飼いの所有の民となった私たちは、幸せである。主の人性は私たちと交わり、主の神性は私たちを守ってくださる。私たちは、主の牧場の民として主を礼拝し、主の御前にひれ伏そうではないか。
注:「主の人性、主の神性」とは、聖書に書かれているように、三位一体の真の神が、真に人となったことを言う。それは、罪を赦す贖いのためである。聖書に書かれているように、人の罪を赦すためには、罪のない「いけにえ」の血が必要である。動物のいけにえの血は、人の罪を覆うことは出来るが、取り除くことは出来ない。罪のない、また罪を一度も犯したことのない「真の人」の血が必要である。その「真の人」の血は、罪人の犯す罪を取り除くことが出来る。それゆえ、三位一体、「父・子・聖霊」の神の内の「子なる神」が、その「真の人」となられ、血を流す必要があったのである。それを成し遂げたのが十字架である。十字架で血の全てを流したキリストは、死に、墓に葬られた。しかしご自身が語っておられた通り、三日目に復活した。今は、神の右の座に着座し、主の民のためにとりなしの祈りをささげておられる。神のみが着座できる神の座に、神であり、人であるキリストは着座なさっている。そして、もう直ぐこの地上に戻って来られ、この地球の秩序を一新してくださる。それが「千年王国」と呼ばれる新しい世界である。一千年が終わると、主は永遠に続く新天新地をもたらしてくださる。
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