9月24日 神にのみ信頼せよ

それは私が、道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めるのを恥じたからであった。実際、私たちは王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたのである。《エズラ記 八・22》

ペルシヤ王ダレイオス王の治世の第六年、第二神殿が完成した。王が再建を許可したからである。実に、着工から21年後、第一神殿が破壊されてから70年後の出来事である。

エズラは次に、民の信仰を建て直すべく、多くのユダヤ人と共にエルサレムに上ろうとしていた。人の働きを信頼することは神を辱めることだ、とエズラは知っていた。信仰によって、彼が仕えているペルシヤ王アルタクセルクセスに、兵士による護衛を求めなかった。異教徒であるアルタクセルクセス王に、エズラたちは告白していた。「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りは、神を捨てるすべての者の上に下る。」彼らのこの信仰告白が単なる口先だけのものだ、と王が受け取ることを恐れた。或いは、イスラエルの神はご自身の民を守ることが出来ないと思いはしないか、と恐れたからである。明らかに、今自らが携わっていることは、主の御用である。主の働きを遂行するのに、肉に過ぎない人間の力を頼ることは出来ない。それゆえ、一行は、人の目に見える形での守りは何もない状態で旅立つことにし、自分たちを守る剣であり盾である神が護衛してくださることを信頼し、出発したのである。

神の栄光のために、このような聖なるねたみを感じる信者が殆どいないことは、懸念すべきことである。或る程度まで信仰によって歩む人でも、時折、人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きを損ねることがある。頼るべき人がなくとも、支えてくれる人がなくとも、世々にわたり救いの岩である主の上に堅く立ち、主ご自身の御手によって支えられる人こそ、最も幸いな者である。信仰者よ。この世の権力者に助けを願い求めることで、主の御名が汚されることを忘れてはならない。主は、ご自身の働きのために必要なものを、ご自身で満たすことが出来ないお方なのだろうか。自分たちの教会のために、国からの助成金を当てにするような信仰者が、果たしているのだろうか。ただひたすら主の御腕だけを絶対に信頼することが、主が崇められる道であることを忘れてはならない。軽率にも、友人や親せきに援助を求めるべきだろうか。

わが魂よ。神にのみ仕えなさい。これに反論して、次のように言う者もいる。「しかし、方法が与えられているのだから、使っても良いのではないか。」確かに、与えられている方法は使っても良いだろう。しかし、私たち信仰者が犯す過ちは、与えられている方法を使わないことではない。神を信頼する代わりに、愚かにも、そのような方法を信頼することによって過ちを犯すことの方が、圧倒的に多いのである。人の助けを無視する人はいない。しかし、それを過度に信頼することで、大きな罪を犯す人が非常に多いのである。

親愛なる読者の皆さん。与えられている方法を用いることによって、主の御名を汚すのであれば、むしろそれを放棄して、神の栄光を現すことを学びなさい。

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