4月10日 どくろと呼ばれる場所

「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。《ルカの福音書 二十三・33》

慰めを与える丘は、カルバリの丘(どくろの丘)である。慰めを与える家は、十字架の木で建てられている。天の祝福をもたらす神殿は、肉体を裂かれた救い主なる岩の上に建てられている。救い主の脇腹は槍で刺し貫かれ、その肉体は裂かれた。聖書に記された歴史の中で、カルバリの悲劇ほど魂に喜びを与えるものはない。

「何と不思議なことか。最も暗い時に、 / 罪のこの世に夜明けが来た。 / 優しい力で心触れられ、 / 御使いの喜びにも勝る慰めを求めて、 / 悲しみに沈む目が十字架に向けられる時、 / ベツレヘムに輝いた星よりも速やかに、夜に光が輝く。」

その日全地は、正午から午後3時まで、真っ暗闇に覆われた。ゴルゴダの丘(どくろの丘)から、光が輝き出た。「木にかけられた者はみな、のろわれている《ガラテヤ 三・13》」。確かに、イエスは十字架に釘付けられ、呪われた者となった。その十字架の陰に、野のあらゆる草花が美しく咲き誇っている。水のない乾いた地に、神の恵みにより、泉が湧き上がっている。水晶の輝きのように純粋な水が湧き出ている。その一滴一滴は、人類の苦悩をいやすことが出来る。

内なる戦いの時を通って来たあなたたちは、「慰めを見出した」と告白するに至るであろう。それは、オリーブ山でもなく、シナイの丘でも、ヘルモン山でもない。「私たちを慰めたのは、ゲツセマネの園であり、イエスが鞭打たれた『敷石(ヘブル語でガバタ)』と呼ばれる場所であり、ゴルゴダの丘であった」と告白するであろう。ゲツセマネの苦菜は、しばしばあなたの人生の苦みを取り去った。ガバタで受けた鞭により、あなたの悩みを打ち消された。カルバリの丘に聞こえたうめき声は、他のすべてのうめき声を取り去った。こうしてカルバリは、私たちに類い稀な慰めを豊かに与える場所となっている。

もしキリストが死なれなかったとすれば、私たちは決してキリストの愛の高さ、深さを知らなかったであろう。また父なる神が御子を与えて死なせられなかったならば、その深い愛を探ることが出来なかったであろう。私たちが日々受ける憐れみは、すべて神の愛から出て、神の愛をたたえている。それはさながら、浜辺の貝殻のようである。それを耳に当てると、深い海のささやきが聞こえて来る。しかし私たちが、海そのものの音を聞こうと願うなら、耳から貝殻を離さなければならない。同じように、日々与えられている祝福から目を上げ、十字架でなされた御業に目を向けなければならない。また、それを記録した聖書に目を向けるべきである。

愛を知りたいと願う者は、カルバリの丘に留まり、「悲しみの人」の死を目を凝らして見ようではないか。

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