11月13日 キリストにとどまらなければ

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができない……。《ヨハネの福音書 十五・4》

あなたは、どのようにして実を結び始めたのだろうか。それは、あなたがイエスのもとに来て、偉大な贖いに自らを投げ出した時、主が完成してくださった義が与えられ、主の内に安らぎ始めた時であった。あなたはその時、何と素晴らしい実を結んだことだろうか。あなたは覚えているだろうか。その時、確かにぶどうの木は生い茂り、柔らかいぶどうの実を付け始めた。ざくろは芽を出し、花壇の花はにおい立ち始めたのである。

今、あなたの信仰は後退してしまっただろうか。そうであるなら、あの愛の時を思い起こし、悔い改めて、初めの愛に立ち返るよう、私たちはあなたに命じる。キリストは、あなたと一つとなるため、あなたを御側近くに呼び出してくださった。「ぶどうの木と枝」のたとえで語られている、一体となる約束を重んじなさい。なぜなら、あなたが実は結ぶのは、ただ主によるからである。あなたがキリストの御許に近づくなら、聖なる訓練があなたに与えられる。その訓練によって、あなたは実を結ぶ者に変えられるだろう。太陽は間違いなく、果樹園の木が実を結ぶのに無くてはならない。恵みの園に植えられた木であるあなたに対して、イエスはその太陽以上の働きをしておられるのである。

あなたには、全く実を結ばなかった時があっただろうか。それは、いつ、どのような時だっただろうか。あなたが、主から最も遠く離れて住んでいた時ではなかっただろうか。祈りの手をおろしていた時、信仰の単純さを見失っていた時ではなかっただろうか。主に目を向けている時ではなく、自らの力や与えられた恵みに思いが集中していた時ではなかっただろうか。「私の山は堅く立つ。私は動かされることはない」と言い、あなたの力がどこから来るかを忘れた時ではなかっただろうか。その時、あなたは実を結ばなくなったのではないだろうか。

自らの心が主の御前で大いに低くされ、へりくだるように導かれる信仰者がいる。その信仰者はその時、「私には、キリスト以外には何も持っていない」と教えられる。私たちは、造られたもの自身には何の力もなく、それ自体には実を結ぶ力がないのを見る。また、その造られたもの自体だけでは、生きる力がないのを見る。その時、私たちは激しく悶えながら、次のように叫ぶのである。「私が結ぶ実は全て、キリストの御力によるのです。私の内からは、いかなる実も生み出す力はありません。」

私たちは過去の経験から、次のことが教えられた。単純に、キリストにある神の恵みに信頼すること。また、聖霊を待ち望めば待ち望むほど、良い実を多く結ぶようになり、その実を神にささげられることである。いのちを豊かに得るため、主を信頼すること。同じように、実を結ぶ者となるため、主を信頼することを。

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