しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。《箴言 一・33》
神の愛は、審きの只中において輝く。その審きの時、ひときわ美しく表現されるのである。
暗雲が低く垂れこめる切れ間から輝く一条の星は、美しい。砂漠の中に突如浮かび上がるオアシスは、光り輝いている。神の怒りの只中で、神の愛はとても美しく、とても光り輝くのである。
イスラエルの民が偶像礼拝を続けたことにより、至高の神の怒りを買った。その時、神は、罰として乳と蜜の流れる地に雨と露とを降らせなかった。そのため、約束の地は、大飢饉に見舞われた。しかし、そうしている間にも、神はご自分の選ばれた民が安全を保つことが出来るよう、配慮してくださった。イスラエルの地の小川がことごとく枯れたが、エリヤのために一つの小川だけは枯れることがなかった。やがてその小川も枯れた時、神はエリヤがいのちを保つことが出来るよう、予め備えてくださった。いいえ、エリヤのためだけではない。神はその時、単に一人の「信仰者」をお持ちだったのではなく、恵みによって選ばれた信仰者、「イスラエルの残りの者:レムナント」をお持ちであった。「イスラエルの残りの者:レムナント」は、五十人ずつ、2つのほら穴にかくまわれた。約束の地がことごとく飢饉に見舞われても、洞窟にかくまわれた百人の真の信仰者には、食物が与えられた。神を恐れる忠実なしもべオバデヤが、それぞれ五十人ずつ、2つの洞窟にかくまい、パンと水で養った。オバデヤは、北イスラエルの王アハブの王宮を司る家臣であった。彼は百人の真の信仰者を、王の食卓によって養ったのである。
このことから、次の結論を導き出そうではないか。たとい、いかなることが神の民を襲ったとしても、神の民は必ず守られる。堅固な大地が揺れ動き、町が崩れ去ろうとも、大空が真っ二つに避けようとも、瓦礫と化した世界の只中にあって、信仰者は最も穏やかな休息の時を過ごすかのように守られ、安全なのである。たとい、神が天の下で、ご自分の民をお救いになれなかったとしても、天において彼らをお救いになる。たとい、この全地が熱く燃え、神の民に安全な場所がなくなったとしても、天が民を受け入れる安全な場所となるのである。
それゆえ、あなたは戦争と戦争の噂を聞いても、神への確信を捨ててはならない。あなた方は動揺することなく、悪を恐れ、静まっていなさい。地上にいかなることが起ころうとも、主の広い御翼の陰にかくまわれ、覆われているあなた方は安全である。主の約束のみことばの上に留まりなさい。主の忠実さの中に憩いなさい。暗黒の将来に対して、戦いを挑みなさい。あなたにとって恐れるものは何もない。あなたの唯一の関心事は、主の知恵の御声に耳を傾けることである。そして、主の御声に従う者に与えられる祝福を、この世に示すことを、あなたの使命としなければならないのである。
注:「アハブ王」は、北イスラエル王国の第四王朝時代の第二代目の王。ダビデの子のソロモン王が犯した偶像礼拝により、神はイスラエル王国を南北に二分した。北イスラエル王国の初代の王はヤロブアムで、彼は「金の子牛」を造り、偶像礼拝を人々に強要した。ヤロブアム王以降、北イスラエル王国の王朝は、目まぐるしく変わった。この北王国では「金の子牛」礼拝を続けたが、「アハブ王」はこの偶像礼拝に加え、隣国の「バアル礼拝」をも取り入れた。(因みに、南のユダ王国の王は、ダビデに対する神の約束により、ダビデの直系の子孫だけが王となり続けた。イエスは、ダビデの直系の子孫である。)
「エリヤ」は、イスラエルの民を偶像礼拝から立ち返らせるため、主に用いられた預言者である。そのアハブ王に、神のみことばを伝えた。神は、エリヤにアハブ王に語るよう、お命じになった。「神は、アハブ王の偶像礼拝を裁くため、北イスラエル王国に3年ほどの飢饉を送る。露も雨も降らない。」そして神は、エリヤにヨルダン川東岸にあるケリテ川に行くよう、お命じになった。そこでエリヤを養うと約束なさったのである。
「オバデヤ」は、アハブ王に仕える王宮をつかさどる役人であり、イスラエルの真の信仰者、「レムナント:イスラエルの残れる者」をかくまった人物である。
「レムナント:イスラエルの残れる者」は、イスラエルの神を信頼する「真の信仰者」である。イスラエル人として生まれた者が皆、神を信頼しているのではない。どの時代も、イスラエルの神を信頼する少数の者たちがいた。その人たちを「イスラエルの残れる者:レムナント」と呼ぶ。
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