11月22日 良き羊飼いなる主

ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした。《ホセア書 十二・12》

ヤコブはラバンと言い争った時、自分の労苦を次のように語っている。「私があなたと一緒にいた二十年間……野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。《創世記 三十一・38~40》」

私たちの救い主の生活は、ヤコブのこの生活よりも更に過酷なものであった。主は、ご自分の全ての羊をお守りになった。そのことを最終的に主は、次のように説明している。「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった。《ヨハネ 十八・9》」主の髪は露に濡れ、漆黒の髪は夜のしずくに濡れていた。主は眠ることなく、ご自分の民のために神に訴え出、夜を徹して祈りをささげられた。或る夜にはペテロのために祈られ、次の夜には別の者のため、主は涙の祈りを捧げれた。イエス・キリストご自身が花嫁にお選びになったがゆえに、その選ばれた者たちを花嫁として迎えるためになされた労苦を思うならば、寒空に星を仰ぎ、野原で座っている羊飼いも、自分の労苦に対して不満を漏らすことなど出来ない。

「寒い山の頂も、真夜中の冷気も、 / 主の熱い祈りを目の当たりにした。 / 荒野は、主が試みられる様子を知り、 / その戦いの様子も、勝利したことも知っっている。」

あなた(ラバン)は昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私(ヤコブ)に責任を負わせました。」この言葉にある霊的意義を考えることは、麗しい。羊が野獣に噛み裂かれたなら、ヤコブはそれを償わなければならなかった。その内の一匹でも、羊が死んだなら、彼はそれを償って保証しなければならなかった。一匹でも欠くことは許されなかったのである。

同じように、イエスは教会を守るため労苦した。それは、信仰者一人ひとりを、ご自分に預けてくださったお方の手に無事に届けるため、保証人としての義務を負ってくださったからではないだろうか。

労苦しているヤコブの姿から、主イエス・キリストの姿を、私たちは思い起こすことが出来る。聖書には次のように書かれている。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。《イザヤ書 四十・11》

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