3月1日 魂をきよめる北風と南風

北風よ、起きなさい。南風よ、吹きなさい。私の庭に吹いて、その香りを漂わせておくれ。《雅歌 四・16》

無関心は何も生み出さない。死んだように動かず、静まっているだけである。人の営みの中で、どのようなことが起こるにせよ、この無関心よりは、ましである。

私たちの魂は、聡くあるべきである。そうあるなら、苦難という北風が吹くことも喜んで受け入れることが出来る。なぜだろうか。神がその北風を、ご自身の目的のためにお用いになっていることが理解出来るからである。その目的とは、私たちの魅力や品性の香りを引き出すことである。次のみことばのように言うことが出来たのは、限られた状況の、限られた人だけであった。「風の中に【主】はおられなかった。《Ⅰ列王記 十九・11》」私たちに関しては、神の恵みが注がれている草木に吹き付ける厳冬の寒風であっても、避けない方が良い。

《雅歌》に登場する花嫁は、謙虚にも、最愛の人が自分を叱責することに身を委ねている。愛する人が何らかの方法で恵みを与えてくれることを、ただひたすら願っていた。花婿が訪れる時や方法については、指図めいたことを彼女は一言も言っていない。この花嫁は、私たちのようではなかった。私たちは、無関心にも死んだように動かず、ただ静まっているだけである。花嫁は、このようなことに辟易としていたのである。今や彼女は、自分を奮い立たせる最愛の人の訪れの時を、待ち焦がれているのである。

しかし同時に、彼女は暖かい南風をも求めいてる。南風は、慰めに満ち、神の愛、神の微笑みに溢れ、贖い主がご臨在してくださる喜びに満ち溢れている風である。

北風も、南風も、マンネリ化した信仰生活を目覚めさせるには、十分に有効な力を発揮する。花嫁は、いずれの風であっても、自分の庭に吹くことを願っている。或いは、二つが同時に吹くことも求めている。「私の庭に吹いて、その香りを漂わせて」くれるならば、最愛の人を喜ばせることができると思っているからである。

彼女にとって、無為に過ごすことは我慢ならないのである。私たちも同じようでなければならない。私たちのつまらない魅力や貧しい品性に、イエスさまが慰めを見い出してくださるとは、どんなに励まされることであろうか。そんなことがあり得るのだろうか。まさに夢のような話である。

私たちは、インマヌエルなるお方の御心をお喜ばせすることが出来るのであれば、試練や死をも厭わない。私たちの愛する主イエスの栄光が現れるためならば、私たちの心が千々に砕けても構わない。

試練を通過していない魅力や品性は、花入れの中で眠っている甘い香りのようなものである。偉大な農夫である御父は、ご自身の知恵を用いて、ぶどうの枝である私たちに望ましい実を結ばせてくださる。御父は、患難という北風も、慰めという南風も共に用いて、信仰、愛、忍耐、希望、服従、喜びなど、その他の美しい花を庭に幾つも咲かせ、かぐわしい香りを匂わせてくださるのである。

願わくは、麗しい経験を通して、私たちがこの意味を体験的に知ることを得させてください。

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