6月14日 主を自らの喜びとせよ

【主】を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いを、かなえてくださる。《詩篇 三十七・4》

このみことばで教えられていることは、生きた信仰を知らない人には、思ってもみない教えであるに違いない。真の信仰者には、よく理解している一つの真理を、別のことばで再び教えられていると受け取れる内容である。

ここで、信仰者の生涯は「主を喜ぶこと」であると教えられている。真実に主を信頼しているなら、必ず幸福と喜びが満ちる。この偉大な事実を、主が私たちに証明しておられるのである。

不信心な、神を恐れない者や、口先だけで信仰を告白する者は、信仰には必ず喜びが伴うことを知りもしないし、見もしない。その人たちにとって、信仰とは「お勤め」か、「義務」か、「日課」の何れかである。それゆえ、喜びや楽しみを決して味わうことがない。そもそも、その人たちが信仰に精を出すのは、ご利益が得られるからか、若しくは、新たな事にチャレンジする勇気がなく、他に何もすることがないからである。私たちが、信仰には喜びが溢れていると証しすると、怪訝な顔をする人が殆どである。その人たちが口にする言葉は、「聖潔」や「喜び」とは、かけ離れている。

しかし、キリストを知っている信仰者は、喜びと信仰とが表裏一体の祝福であることを知っている。それゆえ、肉体の死も、喜びと信仰を引き離すことが出来ないのである。心を尽くして神を愛する者には、主の用意してくださった道を歩むことは楽しく、主の道は全て平安に満たされていることを知るようになる。主を信じることは、このように喜びをもたらし、また、満ち溢れる幸せをもたらす。更には、溢れるばかりの祝福をもたらすのである。聖徒は、主の内に、この喜び、幸い、祝福があることを知るのである。それゆえ、キリストを知る信仰者は、単に習慣的に主に仕えるのではない。たとい、世を挙げてキリストの御名を口汚く罵り、疎んずることがあっても、キリスト者は主に従うのである。私たちは、強制されて神を恐れているのではない。奴隷のように束縛されて、主を信じているのでもなければ、強要されて主の御名を告白しているのでもない。無理強いされて、聖潔に至る道を引きずられるようにして歩んでいるのでもない。義務として、キリスト者としての本分を行っているのでもない。そうではない。私たちは、敬虔に生きることを喜んでいるのである。キリストを信頼することは、希望である。この希望により、私たちに幸福感が生まれる。主から使命が与えられていることは、私たちにとって大きな喜びである。

喜びと真の信仰は、植物の根と葉がそうであるように、一つである。真理と確信がそうであるように、不可分のものである。喜びと真の信仰は、黄金の台の上に並び輝く二つの貴い宝石のようである。

「あなたの愛を味わう時、 / 神の喜びが、私たちの喜びとなり、 / 言い尽くすことの出来ない天上の喜びを味わい、 / 神の御国がこの地上から始まる。」

6月13日へ  6月15日へ   6月の目次へ  「きょうのみことば」へ

コメント