4月25日 わが愛する者よ、出ておいで

私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」《雅歌 二・10》

見よ。私の愛する方の声が聞こえる。主は私に語りかけて言われる。

地には花が咲き、刈り入れの季節がやって来た。私を取り巻く草木、鳥や動物たちが冬ごもりから目覚めた。この季節に、私の愛する方は、私が霊的に眠りこけていることをお望みにはならない。主は、「さあ、立ちなさい」とお命じになる。私は長い間、この世で身を横たえていた。主はよみがえられ、私は主にあってよみがえった。それなのになぜ、そのようなゴミにすがり、未練を持つことがあるのだろうか。この世の愛、この世の欲望、この世の仕事、この世の情熱を離れ、立ち上がり、主の御許に行こう。

主は優しく、「わが愛する者」と私を呼んでくださり、「私の美しいひとよ」と声をかけてくださる。主のこのみことばにより、私は時にかなって立ち上がることが出来る。主がそのように私を「わが愛する者」と呼んでくださり、「私の美しいひとよ」とご覧になっておられる。それなのになぜ、私はケダルの天幕の中に留まることが出来るだろうか。なぜ、この世に属する人の中に、親しく交わる者を見つけることが出来るだろうか。

主の「出ておいで」という御声により、私はいよいよ、わがままや卑屈な思いから解放され、この世からも罪深い生活からも解放され、主の御許に近づく。主が私をお呼びになる。そうである。主を体験的に知ろうとしない、名ばかりの宗教の世界からも、私は解放され、主に近い者とされる。彼ら宗教家は、より高いいのちがあることを認めず、そのいのちによって歩もうとしないのである。しかし、主が私をお呼びになる。「出ておいで」との主のみことばは、少しも私の耳に厳しく響くことはない。全てが空しく、罪の満ちるこの荒野に、私を留めるものがあると言うのだろうか。

わが主よ。私はこの世から去り、主の御許に参りたいのです。しかし、この世の茨に妨げられて、ここから逃れることが出来ないでいます。出来ることなら、あなたに罪を犯すことがないように、目も耳も、心さえも、なければと思います。あなたは親しく「出ておいで」と言われ、私をあなたの御許に呼び寄せてくださいます。それは、実に素晴らしい歌のように、私の心に響きます。あなたの御許近くに行くことは、さすらいの旅から我が家に帰ることです。荒れ狂う海から港に着くことであり、長く働いた後の安息の時です。私が強く望んでいた目標、私が願い求めて来た頂点に達することです。

しかし、主よ。石ころが、どのようにしたら立ち上がるのでしょうか。粘土の塊が、どのようにして、じめじめした穴から出て来るのでしょうか。主よ。私を引き上げ、私を引き寄せてください。あなたの恵みによって、私を立たせてくださり、私を引き寄せてくださると、信じます。あなたの聖霊を送り、私の心の内に、聖なる愛の火を燃やしてください。そうすれば私は、この世を去る時まで、私に残された日々、ずっと立ち続けることが出来ます。こうして本当に、あなたの御許近くに行くが出来るのです。

注:「ケダル」とは、ハガルがアブラハムとの間に産んだイシュマエルの第二子の名前である。その後、ケダルの子孫はアラビアの遊牧民となる。ケダルの子孫たちが住んでいた国も、この名で呼ばれるようになった。彼らは、黒毛製(黒い山羊の毛皮)の幕屋:テントに住んでいた。ここでは、神を無視して生きる「この世」を象徴的に表すものとして使われている、と思われる。

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