4月26日 イエスを覚えていなさい

食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」《コリント人への手紙 第一 十一・25》

イエスが語られたこのことばは、クリスチャンがキリストを忘れることがある、と言っているように聞こえる。

私たちの記憶は当てにならず、自らの都合に合わせて変わるのだろうか。仮にその通りだとすると、この恐ろしい仮定は十分に考え得ることである。そうでなければ、「わたしを覚えて、これを行いなさい」という、主のこの愛に満ちた励ましのことばは、不必要のはずである。ところが悲しいことに、これは単なる仮定ではなく、私たちが頻繁に経験することである。「忘れることがあるかもしれない」という可能性ではなく、「忘れてしまう」という嘆かわしい事実ゆえに、このみことばは語られているのである。

クリスチャンとは、神の子羊がいのちを捨て、血潮を流してくださったことによって贖われた者たちである。永遠の神の御子が、永遠の愛をもって、忠実に、誠実を尽くしてくださっている者たちである。であるのに、恵み深い救い主を忘れるとは、あり得ないことであり、考えられないことである。確かに、聞くだけでも驚きを禁じ得ないが、事実その通りのことを目の当たりにしているのである。それゆえ、私たちがその罪を犯していることを、否定することはできない。

主は、決して私たちをお忘れになることはない。その主を、私たちは忘れてしまうというのだろうか――。主は、私たちのために血を流しててくださった。その主を、私たちは忘れてしまうとは――。主は、いのちを賭してまで私たちを愛してくださった。このお方を、私たちは忘れてしまうとは、何たることか――。そんなことがあり得るのだろうか。そう、あり得るのである。良心は、更に驚くべきことを告白するが、私たちは主を、今日は来て明日は旅立って行く、一夜限りの仮の宿を求める旅人のように扱っている。大変悲しむべきことであるが、私たち全ての者が、この罪を犯しているのである。私たちの記憶の中に、永遠に住んでくださるお方としてお迎えすべきお方を、私たちは、そのように一夜限りの訪問者にしているのである。

十字架は、人の記憶の中にいつまでも生き続けるべき出来事であり、迂闊にも忘れてしまうなど、もっての外である。その神聖な十字架を忘れ去り、汚している。あたかも泥足で踏みにじっているかのようである。

あなたの良心は、まさにその通りと言わないのだろうか。あなた自身、イエスを忘れていることに気付かないのだろうか。あなたの心は、この世の「こと」や「もの」で占められていないのだろうか。あなたの愛を傾けるべき主に対して、あなたは無頓着になっている。あなたの目がしっかりと十字架に向けられるべき時に、あなたの思いは地上の仕事に夢中になっている時もある。肉は、常にこの世の騒々しさを喜ぶ。この世の出来事は、常に魂を引き付けて離さない。この世の「こと」や「もの」は、キリストから魂を引き離すことに成功している。それゆえ、地上の毒草についてはよく記憶していても、麗しいシャロンのバラであるお方イエスが、魂の中でしおれるという憂き目を見ているのである。

私たちの愛するお方イエスのために、天の忘れな草(forget-me-not:私を忘れないで)を私たちの心に結びつけようではないか。他のことなら忘れたり、失ったり、手からこぼれ落ちたりすることがあろうとも、一向にかまわない。放っておこう。しかし、主イエスにはしっかりとすがり、握って離すことがないようにしようではないか。

4月25日へ  4月27日へ  4月の目次へ  「きょうのみことば」へ

コメント