6月13日 ただで受けなさい

いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。《ヨハネの黙示録 二十二・17》

イエスは、「ただで受けなさい」と仰せられる。代価を支払う必要もなければ、受け取るための下準備も必要ないと、主は仰せられる。聖霊に触れられ、きよめられ、聖なる感動が与えられる経験も、一切必要ない、と主は仰せられる。あなたに良い感情がなくても、あなたに受け取る意志さえあれば、あなたは「ただで受けなさい」と主から招かれているのである。それゆえ、来なさい! あなたに信仰がなくても、悔い改めがなくても、イエスのもとに来なさい。そうすれば、主は「いのちの水」をあなたに与えてくださる。あるがままの姿で来なさい。そして「ただで受けなさい。」お金は要らない。何も犠牲にする必要はない。主は、乏しい者にご自身を与えてくださる。

町々の公園にある水飲み場は、大変便利な設備である。その水飲み場の前に立ち、財布の中身を見て、「1000円札がないから、この水を飲めない」という者はいない。全く馬鹿げたことである。どれほど貧しくても、蛇口をひねれば、水が出て来る。来て、そのまま水を飲めば良いのである。近くを通る人は、喉が渇いたなら、水飲み場のある公園に行けばよい。ボロを纏っていようと、高級毛織物を着ていようと、水を飲む許可証や証明書は必要ない。水飲み場がそこにあること自体、その水を自由に飲んで良い証拠である。「水飲み場をそこに設置し、綺麗な水でリフレッシュしてもらおう」と考え、そこに水飲み場を設けた心優しい人たちがいたのである。私たちは、ただそれを飲むだけでよい。何も言う必要はない。喉が渇いているのに、水飲み場を眺めながら公園を通り過ぎてしまうのは、恐らく車に乗った、上品な紳士淑女たちだけであろう。彼らは非常に喉が渇いているにもかかわらず、車から降りて水を飲む下品な真似など、思いつくことすらない。彼らは公園の水飲み場で飲むことは、自分の品位を下げることになると思っている。それゆえ、喉が渇いているのに、我慢して通り過ぎるのである。

主よ。自分の行って来た幾多の善い行いを頼るあまり、キリストの御許に来ることが出来ない人が何と多いことでしょうか。彼らは次のように言っています。「私は、売春婦や罪人と同じ方法で救われたくない。何だって?! あのみすぼらしい煙突掃除夫と同じ方法で、天国へ行けと言うのか?! 主と共に十字架につけられた、あの強盗と同じ道を通る以外、栄光の天の御国に行く道はないと言うのか?!」このような高慢な者が、生けるいのちの水を飲むことは決してないのです。

しかし、主は仰せられる。「いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

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