6月1日、人生の夕と朝を喜べ

夕があり、朝があった。第一日。《創世記 一・5》

夕があり、朝があった」、世界の創造の最初から、こうだったのだろうか。「第一日」、神が「時間」をスタートなさった時、光と闇によって「時」を分けたのだろうか。

であるなら、私を取り囲む環境や、私の境遇が、繁栄という昼間から、逆境という真夜中に変化したとしても、さほど不思議ではない。

私の魂についても、常に真昼の光が輝いているとは限らない。かつての喜びが失われて嘆き、夜の暗闇の中で、「愛するお方」を探し求めなければならない時期もある。これは、ひとり私に限ったことではない。全て主に愛されている者は、裁きと慈しみの歌、試練と解放の歌、嘆きと喜び歌を、同時に歌うように定められている。私たちが、「そこには夜がない《黙示録 二十一・25》」と記されている新天新地に着くまで、霊的にも、自然界においても、昼と夜は止むことがない。これは、神の摂理によって定められているのである。私たちの天の父が予め定められたのであるから、賢明であり、また善である。

わが魂よ。このように、神が「夕があり、朝がある」ように定められたのなら、どのように応答することが、あなたにとって最も良いことなのだろうか。

神は優先事項を定め、それを秩序正しく保つために、みことばの命令を出された。先ず、この神の秩序の中で満足することを学びなさい。ヨブと同じように、主の御手から、善だけなく、悪をも喜んで受け取ることを学びなさい。

次に、「夕があり、朝があった」ように、喜びの朝と苦しみの夕とが交互にやって来ることを、喜べる者となれるように学びなさい。喜びの太陽が上ったなら、その喜びが与えられたゆえに、主を賛美せよ。日が沈み、暗い夕闇が包まれる時も、そのことのゆえに、主を賛美せよ。日の出も日没も、共に美しい。その美しさを歌い、主の栄光をほめたたえよ。ウグイスのように、常に主に向かって、賛美の歌を歌いなさい。夜も、昼と同様に有益であることを信じなさい。悲しみの夜にこそ、恵みの露が豊かに降りる。嘆き悲しむ闇の只中でこそ、約束という星の輝きは、その輝きを増すのである。

どのように周囲が変化しようとも、主に仕え続けなさい。もし、昼の時を過ごすあなたの標語が「働け」であるなら、夜の時はそれを「見張れ」に換えなさい。どのような時であろうとも、それぞれに為すべき務めがある。主が突然、栄光の内に現れてくださるまで、主のしもべとして召されたあなたの務めを続けなさい。

わが魂よ。お前は年を重ね、死の夕べが近づいている。しかし、恐れてはならない。死の夕べも、「一日」の一部であり、「主はいつも(一日中)彼をかばう《申命記 三十三・12》」と、主は言われるからである。

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