5月19日 主はしもべとなり、仕えられた

また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。《伝道者の書 十・7》

横柄な成り上がり者が、我が物顔で、高い地位をほしいままにするのをよく目にする。一方で、真に偉大な者が、人知れず悲嘆に暮れていることもある。

これは、神の摂理の中に隠された、一つの謎である。この謎の解かれる日が来るなら、正直に、真っ直ぐに生きようとする者の心は喜ぶ。しかし現実には、このような不条理は日常茶飯事である。それゆえ、仮に自分自身の境遇に、この不条理が降りかかったとしても、誰もつぶやくことすらしないのである。

主イエスは人として歩んでおられた時でさえ、地上を治める諸々の王たちの内、ただ一人、真の王であった。にもかかわらず、しもべの姿をとり、人に仕えてくださった。しもべとなり、労苦と奉仕の道を歩まれた。主イエスに従う者も、主と同じ道を歩むのである。主の弟子たちは、主の血によって買い取られた、神の王子、王女である。しかしこの地上で、彼らの身には、卑しい者、取るに足りない者として蔑まれることが起こるであろう。それゆえ、そのように蔑まれたとしても、別段驚くには及ばないではないか。

この世の基準、価値観は、神の国とは逆さまである。それゆえ、先の者が後になり、後の者が先になっている。悪魔の奴隷である者たちが、この世を牛耳っているさまをご覧なさい。彼らは、何と威張り散らしていることだろうか。何と横柄で、自らを誇っていることだろうか。

聖書には、次のような実例が書かれている。ハマンが宮廷で自らを誇示している時、モルデカイは門前にうずくまっている。サウルが一国の王として支配する時、ダビデは山中をさまよっている。イゼベルが宮殿で大言壮語している時、エリヤは洞穴でつぶやいている。

高慢で、神に逆らうよこしまな者に、自らもなってみたいと願う者が、果たしているだろうか。いいえ、いるはずもない。その一方、人々から蔑まれている聖徒をねたむ者が、いるだろうか。いいえ、いるはずもない。車輪が回転する時、上下は逆転する。同様に、最も低い者が上になり、最も高い者が低くなる。それゆえ信仰者よ。忍耐しなさい。時の流れの中で、誤った判断が下されて来たが、永遠の世界では必ず正されるのである。

次の2つの過ちに陥らないよう、心しようではないか。私たちの情欲や肉の欲が勝利し、凱旋のパレードをすることのないように。と同時に、私たちの内に与えられている、より高潔な力が塵にまみれて歩むことのないように。恵みを主君として支配して頂かなければならない。また一人ひとり、キリストの肢体である私たちを、義の武器として頂かなければならない。聖霊は秩序を愛される。それゆえ、聖霊は私たちの力と才能のために、各々にふさわしい地位や場所を用意し、配置してくださるのである。聖霊は、これらの霊的才能によって、私たちを王なるキリストに結びつけてくださる。そして、これらの才能には、至高の場所を備えるのである。それゆえ、神が一人ひとりを適材適所に配置なさることに対して、決して邪魔することがないようにしようではないか。むしろ、私たちの肉体を聖霊の管理のもとに置き、神に服従させることが出来るよう、恵みを呼び求めようではないか。

私たちが新しく造られたのは、情欲に支配されるためではない。私たちが王として、キリスト・イエスにあって、霊と魂と肉体の三つから成る王国を支配し、父なる神の栄光を現すためである。

注:「摂理」とは、神が介入してくださり、神の目的や計画に向かって、不思議な方法で人が導かれることを指す。

「ハマン」、「モルデカイ」は《エステル記》に出て来る人物。ペルシャの王クセルクセスのきさきとなったユダヤ人の女性エステル(ユダヤ名ハダサ)の育ての親で、彼女のおじにあたる、信仰に篤いモルデカイ。ハマンはクセルクセス王のもとで総理大臣となった人物で、反ユダヤ主義者。ペルシャ国内のユダヤ人撲滅計画を立てるが、モルデカイとエステルの働きにより、王の怒りを買い十字架刑に処せられる。

「エリヤ」は、北イスラエル王国のアハブ王の時代、主から遣わされた預言者。バアルの400人の預言者たちと祈りの戦いを行い、勝利を治め、その預言者を皆殺しにする。それに怒り「エリヤを殺してやる」と言ったのが、アハブ王の妻「イゼベル」。エリヤは逃走し、神の山ホレブの洞穴に逃げ込んだ。ホレブは、かつてモーセが神から律法の記された石の板二枚を頂いた、シナイ山を含む山脈である。

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