5月18日 キリストにあって満たされている

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。《コロサイ人への手紙 二・9~10》

キリストは、完全に神であり、また同時に完全な人である。この特性を信じ受け入れることは、私たちの自由意志に委ねられている。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」何と驚くべきことだろうか。この聖句を私たち人がどのように理解するかに関係なく、この聖句は私たちに向けて語られている。そして、この聖句が語っていることは、キリストは、私たちを主にあって完全な者とするということである。誤解してはならない。それは、私たちが神の性質を持つということではない。そんなことは、キリストには出来ない。しかし、主は、出来ることは全てなされた。ご自分の神としての性質と権能を捨て、私たちを救うため卑しい者となられ、しもべとなられたのである。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」今やキリストは、全能なるお方、全知のお方、遍在されるお方、不変のお方、間違うことが一つもない完全に正しいお方である。このキリストの神性が全て一つとなって、私たちを守っているのである。

信仰者よ。立ち上がり、主イエスを仰ぎなさい。主は今、ご自身の神としてのご性質をことごとく、私たちの救いという二輪戦車に結び付け、牽引してくださっているではないか。主イエスの恵みは、何と広く、何と尊いことだろうか。主の真実は、何と堅固だろうか。主イエスは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない。主の不変性は何と揺るぐことのないご性質だろうか。主の力は、何と無限だろうか。主の知識は何と際限なく広いことだろうか。主イエスは、これら神としてのご性質の一切を、「救い」の神殿の柱として据えたのである。しかも、三位一体の神、創造主なる神としてのご性質を、少しも損なうことなく、永久に受け継ぐべき相続財産として、私たちのものとなるとの契約が結ばれているのである。

救い主の心にある、大海のように深く広い愛は、その一滴一滴全てが私たちのものである。救い主の全能の御腕にある、一つひとつの筋肉も、救い主の威厳に満ちた冠にはめ込まれた、一つひとつの宝石も、救い主の神としてお持ちの無限の知識も、神としてお持ちの厳格な義も、全て私たちのものである。そして、私たちの救いを達成するため、全てが用いられるのである。

神の御子として、礼拝をお受けになるべき位格をお持ちのキリストの全てが、私たちに譲り渡されている。キリストの全てを、私たち信者が、満ち満ち溢れるほど豊かに享受できるよう、主ご自身が私たちにお譲りになっているのである。主の知恵は、私たちを導く。主の知識は、私たちを教え諭す。主の力は、私たちを覆い、守る。主の義は、私たちの救いを保証する。主の愛は、私たちを苦しみ、悲しみから解き放つ。主の憐れみは、私たちから落胆、孤独を取り去る。主が変わることのないお方であることは、私たちの信頼の基である。

主は、惜しむことなく、神の山の奥深くにある鉱山を、私たちに向けて開放している。その鉱山にある、隠された宝を掘り当てるよう、私たちに勧めておられる。主は言われる。「キリストのご性質の一つひとつ全て、ことごとく、あらゆるものが、あなたのものだ。あなたがたは主の恵みに満たされなさい。主のいつくしみに満ち溢れなさい。」

このようにイエスを拝し、所有することは、何と麗しいことだろうか。また、キリストは既に、「与える」と真実に約束してくださった。それゆえ、主の愛と力は、私たちの人生の中に、現実のものとして必ず注がれるという確信に満たされ、主の御名を呼び求めることは、何と麗しいことだろうか。

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