神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。《ヨハネの手紙 第一 二・6》
クリスチャンは、なぜキリストに倣わなければならないのだろうか。
第一に、それは自分自身ためである。クリスチャンよ。罪の病から遠ざかり、罪から解放されたいと願っているだろうか。自らの魂が健康な状態であることを願っているだろうか。恵みによって成長し、精力的に活動することを願っているだろうか。であるなら、イエスを自らの模範とすることである。クリスチャンよ。自らが幸せになるため、イエスとの聖く幸いな交わりという、最上のぶどう酒を飲み干したいと願っているだろうか。この世の心労と悩みから解放されたいと願っているだろうか。であるなら、キリストが歩まれたように、自らも歩むことである。
天の御国に向かう旅を快調に歩むには、何よりも次のことが欠かせない。あなたのすべての行動の基準を、イエスとすることである。そのため、心の内にイエスのかたちを着る必要がある。聖霊の力により、イエスと共に、主の御足の跡を踏むことが出来るその時こそ、あなたは最も幸いな状態にあり、また神の子どもとされていることを、あなたが深く、体験的に知る時なのである。三度も主を否み、主から遠く離れたペテロは、危険な状態にあった。また、彼は不安の中にいたのである。
第二に、信仰のために、イエスに倣う者となれるよう努めなさい。何と哀れな信仰だろうか。信仰よ、お前は、残虐な敵の攻撃を受けて来た。しかし、その敵がお前に与えた傷は、お前の友が与えた傷に比べれば、その半分にも及ばない。聖なるイエスの美しい御手に、そのように激しく、大きな傷を負わせたのは誰なのか。偽善という小さな剣を用いている、自称クリスチャンである。クリスチャンを装ってはいるが、羊のなりをした狼そのものである。彼ら自称クリスチャンは、口実を設けて羊の群れに入って来る。そして、檻の外にいる獅子以上のことをする。その羊の群れを次々に口にくわえては振り回すのである。ユダの口づけほど、信仰に致命的な傷を負わせる凶器はない。彼ら自称クリスチャンは、内面に矛盾をかかえ、節操がなく、気まぐれである。福音を嘲笑する批評家や異端者以上に、彼らは福音を傷つけているのである。
第三に、とりわけキリストご自身のために、主の模範に従いなさい。クリスチャンよ。あなたは、自らの救い主を愛しているだろうか。主の御名は、あなたにとって尊いだろうか。主があなたになさることはみな、あなたにとって麗しいことだろうか。また、この世の国々がイエスのものとなることを見たいと望んでいるだろうか。そして、主があがめられることを強く願っているだろうか。あなたは、人々が主のもとに獲得されることを切望しているだろうか。であるなら、イエスに倣いなさい。全ての人に知られ、また全ての人に読まれる「キリストの手紙」となりなさい。
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