2月14日 その日の分の恵み

彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されていた。《列王記 第二 二十五・30》

エホヤキンは、捕囚の地バビロンで囚人の服を着替え、王の前で暮らすことが許された。彼は、数か月分の蓄えを与えられたのではない。「彼の生活費はその日々の分」を日払いにすると決められ、牢獄を出、王の前で暮らすようになったのである。

ここに、すべての主の民の幸福な状態が描かれている。人が実際に必要としているものは、ただ「その日々の分」である。私たちは明日の分を必要としていない。夜が未だ明けていないのであるから、明日必要とするものは未だ生じていない。八月という月には、特に私たちは渇き覚える。だからと言って二月に渇きをいやす必要はない。二月には、未だ八月の渇きを覚えていないからである。もし、二月に日ごとの必要が十分に与えられているならば、八月にも何も不足がないはずである。

一日に足りる分が、私たちが実際に受け取ることの出来る全てである。その日に必要とする食糧と衣服があれば、それで足りるのである。それ以上のものを、食べたり、着たりすることは出来ない。余った分は、知恵を用いて保管しておく必要がある。しかし、多くの富を持つようになると、盗まれはしないかと不安になり、見張ることになる。杖を一本持って旅に出るなら、その杖に助けられる。旅も安全に進むであろう。しかし、何本も抱えて旅を続けるなら、相当の重荷を負うことになる。同様に、ご馳走も十分満足するまで食している時が美味しいのであって、どんな大食でも満腹以上に食べるなら、却ってまずくなる。私たちの期待すべき分は、その日に必要としている量である。それ以上のものを欲張って求めるのは、感謝の心を持たない者のすることである。

天の父なる神が、私たちにそれ以上お与えにならないのであれば、その日に与えられた分をもって満足すべきである。エホヤキンになされたことは、王の王である天の父が私たちになさることなのである。私たちは日々、その日の分を確実に頂く。それは王から賜る、その日に定められた分である。恵み深い賜物であり、また永遠に賜るものである。神の約束を信頼し、信仰に立って、感謝に満ち溢れるべきである。

愛するクリスチャン読者よ。恵みとは、その日その日に必要としているものが与えられることである。力を蓄えておくことは出来ない。日々、天からの助けを求めなければならない。日々必要とする分を、御父はあなたのために備えていてくださる。このことを約束しておられる。何と麗しいことであろうか。あなたは今日一日、上からの新しい力を必要としている。それは必ず与えられる。みことばを読みながら与えられる人もいよう。主に仕え、人々に仕えている時に、必要な力が与えられる人もあろう。ディボーションの時に与えられる人もあれば、祈りの内に与えられ、更には主を待ち望んでいる時に与えられる人もあろう。

イエスにあって、必要としていることはすべて備えられている。ならば、きょう必要としている分を、絶えず主から頂きなさい。日毎に必要とする恵みのパンは、神の憐れみの食卓に並べられている。空腹のままその食卓を離れ、去って行くようなことが決してあってはらない。

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