7月22日 キリストと花嫁なる教会

わたしが、あなたがたの夫であるからだ。《エレミヤ書 三・14》

キリスト・イエスは、御自身の民と婚姻関係で結ばれている。キリストは、教会が奴隷のくびきにつながれる遥か以前に、教会を貞節な処女として、愛をもって妻としてお迎えくださった。

ヤコブはラケルを愛し、結婚するために、七年間の賃金を花嫁料とした。同様に、主は、教会の花嫁料である贖い金をすべて支払うまで、燃えるような愛をもって労苦された。今や主は、御霊によって教会を探し求め、教会にご自身を明らかになさり、主への愛を燃え立たせてくださった。やがて、子羊の婚宴である千年王国において、主と花嫁である教会との無上の喜びが完成する。主は、その輝かしい時を待っておられるのである。

栄光の花婿が、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の《エペソ 五・27》」花嫁を天の父なる神の御前に差し出される時は、まだ来ていない。教会はまた、キリストの妻として、女王として、その品位を未だ備えるに至ってはいない。花嫁なる教会は今尚、憂いの世を、天に向かって旅する旅人であり、ケダルの天幕に住む者である。そうではあるが、彼女は今この時でさえ、花嫁であり、イエスの配偶者であり、キリストの心にとって愛しい者、キリストの目にとって尊い者、キリストの掌に名を書き記された者、キリストの人格と一体にされた者である。地上にあっては、キリストは教会に対して夫としての務めを果たし、御自身の愛を注いでおられる。主は、教会が抱える必要をことごとく備えられた。教会の一切の負債を支払い終えた。教会が御自身の御名を用いることを許し、御自身の一切の富を教会が共有することを許しておられる。主が教会に対して、これ以外のことをなさることはない。離別するということばを口にすることすらない。「わたしは、離婚を憎む《マラキ 二・16》」と記されているからである。

最も愛し合った人間の夫婦でも、死は、両者の絆を断ち切る。しかし、キリストと教会という不滅の夫婦の絆を、死は決して裂くことは出来ない。天の御国では、復活した人は娶ることも、嫁ぐこともなく、天の御使いのようになる。しかし、この法則に一つの驚くべき例外がある。それは、天において、キリストとキリストの教会とが、喜ばしい婚礼を祝うことである。この結婚による結合は永久的であり、地上の結婚生活より遥かに親しいものである。地上生涯における夫の愛がどれほど純粋で熱くあろうとも、それは、イエスの心に燃える愛の炎を写す絵のようなものに過ぎない。このように、人が父と母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる結婚は、キリストと教会が結び合う結婚という奥義の型なのである。なぜなら、キリストは教会と結び合うため、御父を離れ、教会と一体となったのである。

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