10月22日 神は喜びをもって愛する

わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。《ホセア書 十四・4》

このみことばは、神の様々なご性質を簡潔に表現している。このみことばが言わんとしている内容を理解する者は、或る意味で神学者である。このみことばの中に飛び込み、自らを委ねることの出来る者は、神の民の中でも信仰に進んだ者と言えよう。

このみことばはまた、私たちの贖い主キリスト・イエスによってもたらされた、輝かしい救いのメッセージを要約している。

このみことばの中心は、「喜びをもって」である。「喜びをもって」とは、神がご自身の愛を天より地に注がれることである。これは、神にのみ可能なことであり、栄光に満ち溢れた、神の方法である。即ち、キリストは永遠の昔、人類を愛さずにはいられなかった。そして、地に降られたのである。その愛を受ける価値のない者、その愛をどんな犠牲を払ってでも得ようとはしない者、またその愛を求めることさえしない者に、その愛は注がれる。実際のところ、神が私たちのような者を愛される方法は、これ以外にはない。

このみことばは、「私たちには、神の愛を受けるにふさわしい資格がある」という教えをことごとく、打ち砕くものである。「わたしは…喜びをもって彼らを愛する。

ところで、私たちに神の愛を受けるにふさわしい適性や資格や働きがあると言うなら、神は私たちを喜んで愛することはなさらない。少なくとも、神の愛を受けるにふさわしい適性や資格や働きがあると主張することにより、神の喜びは小さくなり、また減じられるからである。しかし、この愛は今も有効に働いている。「わたしは…喜びをもって彼らを愛する。」私たちは、次のように泣き言を言う。「主よ。私たちの心は余りにも頑なです。」主は仰せられる。「わたしは…喜びをもって…愛する。」私たちは尚も申し上げる。「けれども、私が願っているほどには、私にはキリストが必要ではないようです。」主は仰せられる。「わたしは、あなたが必要を感じているから愛するのではない。わたしは…喜びをもって…愛する。」私たちは更に続ける。「けれども、私が望んでいるようには、霊が素直になるのを感じないのです。」

次のことを忘れてはならない。私たちの行いや働きは、神が愛を注ぐことの条件とはならない。イエスの仲介によって結ばれた新しい契約は、無条件契約である。キリスト・イエスの中でなされた「御子を信じる者はさばかれない《ヨハネ 三・18》」という神の約束に、私たちは全幅の信頼を寄せることが出来るのである。神の恵みは、いつでも喜んで与えられている。私たちがふさわしい者になったら、与えられるのではない。私たちの働きによって、与えられるのでもない。金や銀をもって買い求めるものでもない。神の恵みは無代価で、いつでも与えられているのである。

わたしは…喜びをもって彼らを愛する。」このみことばにより、信仰から離れた者は主の御許に呼び戻される。実のところ、ホセアはこのみことばを、信仰から後退した者のために記している。「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。

信仰から後退した者たちよ。この寛大な御約束により、今あなた方の心は砕かれる。そしてあなた方は御父のもとに立ち返り、あなた方が傷つけて来た御父の御顔を慕い求めるようになる。

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